7月26日(日)
 地平線の若手主体のランニングクラブが結成された。早速高尾山で試走をすることになった。参加者はおなじみ江本さん、松尾くん、O崎さん。この3人は江本記念のTシャツを着ている。私一人が異端者だった。高尾山から陣馬山往復の予定であったが、ベテランと若手に差があったので、陣馬山から和田峠に下った。江本さんは電灯までもってきていたが、とてもそんな長丁場の山行はむりなので、明るいうちに下山。

 江本さんは若手にはやさしい。私だったらはきっと「勝手に戻ってこいよ」と言って、さっさと先に行ってしまったことだろう。実際にむかしサハラの会の連中は、夜中に置いていかれて泣きべそをかいていた。ひどい人だと言って、二度と顔を見せない連中もかなりいた。それでもしつこく付いてきた連中とだけいまだに付き合っている。来る者だけを受け入れて、脱落した者は知ったことじゃないという教育は今ではまったく受け入れられない。

「体力さえあれば知力が付いてくる」
などと、若者をたぶらかすような言を弄する者がいるらしいが(?)それは知力のない者に言う言葉である。もともと知力のある者は、走るたびに脳細胞がボロボロこぼれ出すので、深入りは禁物だ。

松尾くん、O崎さんあまりおじさんたちの言に惑わされないように、適当にがんばってください。

隅田川花火を見に行く

7月25日(土)
 夕刻、隅田川の花火見物に一家でいく。わが一族の三輪家は江東区の17階の高層住宅に住んでいる。この部屋を選んだ大きな理由が花火見物というだけあって、最高の観覧席。

薄暗くなった頃からドンドンと音が聞こえてくる。テレビでも中継をチェックしながら本物の花火を見物する。この建物からは打ち上げている台船は見えないので、テレビと交互にみる。

今年は桜橋と厩橋(うまや橋、かわやではない。)の二カ所で交互に、あるいは同時に打ち上げられている。ここからは両方が等距離に見える。テレビの画面は直近で撮っているので迫力がある。

ちょっと遠くてもやはり本物はいい。音、煙、花火、そして下町のにおいあるいは雰囲気が合わさっているからだ。おいしい飲みもの、食事、最高の花火見物でした。

モンゴル娘のサイハナさん

7月25日(金)
昨年の今ごろ、我が家にはモンゴルの娘さんがホームスティしていました。うちの奥さんがモンゴル旅行をしたときに通訳をしてくれた女性でしたが、つとめていた会社の研修で3ヶ月間、東京で過ごしました。

日本の駅で乗り換え方法を聞くと、
「日本人なのに、なんでそんなことを知らないのか」
といぶかられるぐらい日本語は上手でした。私は、「方向音痴」と「おさんどん」など学校では習わないような日本語を教えてあげました。

 その彼女が昨日1年ぶりに日本にやってきました。今は兄弟が日本にいるので、そこに遊びに来たそうです。お土産にインスタントの塩味ミルク紅茶をもってきてくれました。昨年はモンゴルにはインスタント紅茶などなかったのですが、どんどん新しい試みがなされ、怒濤のように外来文化が入り込んでいるようです。

大きな変わり目にいる彼女たち若者は、国を変えるような力をもっているように見えます。最初は外来文化にあこがれるかも知れないのですが、自分たちのよき伝統を保って、新しい国を築いていってほしいものです。

 私は、「うちの娘だよ」といって、昨年のようにつれて歩きたかったのですが、滞在期間が短いのでそうもいかないようでした。
「結婚式には行くからね」
と言って、しばしの別れになりました。来年はモンゴル結婚式ツアーをやらなくちゃ。待ち遠しい楽しみがまたひとつ増えました。

竹早高校100年史

7月22日(火)
 昨日まで3連休だった。といっても世の中が連休なだけで、こちらは毎日が日曜日だ。先週はまたまたいろいろな人に会った。山梨の玉穂というところに、何年かぶりで坂原先生にお目にかかった。私は今、浪々の身だがいろいろ世の人のお世話にならなければ生きていけないことがあるのです。お世話になりました。 

 東京では、前の職場の百周年記念委員の方々と会食。あれはもう3年前になるが、100年の歴史をもつ学校で、その式典に係わっていたのだ。平行して記念誌を編集していたが、私は途中で逃げ出してしまった。細田盛夫さん、坂原さんの執念で、すごい記念誌ができた。もし私がいたら、
「この辺でいいじゃないか、もう止めようよ」
と言ったにちがいない。

私が百年誌編集で役に立ったといったら、早めにいなくなったということだろう。私もなかなかいいことをしたものだ。普通の学校の記念誌は、読んでいてもそれほどおもしろくないが、これはよく読める。たいした本にできあがった。出版お祝いで高田馬場のチャイカでロシヤ料理を堪能した。

 さて明日は「みわ塾」の日だ。今回はビデオをパソコンで編集してみた。だんだんパソコンの使い方がうまくなってきたゾー。内容は上の写真にある「異形(いぎょう)の惑星」を含む「幸運な星・地球」が主題である。どうぞお越し下さい。

地平線通信発送 エミコさん!

夕方から地平線会議の通信を印刷し発送作業をした。今年の4月から場所を新宿区の榎町区民センターの会議室を借りて、作業をしている。それまで20数年間は、あまり大きな声では言えないが、別の施設を借用していた。

 この区民センターには立派なリソグラフの印刷機や折り機、カッターも完備している。使う人はほとんどいないので地平線会議専用みたいだ。近くには紙の問屋や封筒の問屋もある。一番いいのは作業が終わったあとに安くておいしい飲み会の場所(江本さんお気に入りの「北京亭」)。

 いままではおじさん2,3人がシコシコと作業をしていたが、4月からは助っ人がたくさん来てくれるようになり、ワイワイ言いながら楽しく素早く作業が進むようになった。藤原さん、関根さんたちのおかげだ。
 さらに今回は江本さんがシールエミコさんをよんできてくれた。彼女は世界を11年間も自転車で旅を続けてきた人だ。

彼女が来るとなればすぐにすっ飛んでくるのが冒険王賀曽利さんだ。彼が来ると一気に盛り上がる。私が知り合って35年くらいになるが、その間ずーっと盛り上がり放しだ。この活力を維持するのは並大抵のことではない。さらに彼女と旅の途中で出会ったT井ご夫妻や長野画伯、ひげの武田くん、小田原からのY子さん、江本さんから悪の道に引き込まれそうになっている大学生松尾くん。
 またまた今日も楽しい1日であった。

7月12日(土)
玉原友の会が新宿であった。昔、群馬県の玉原高原でお父さんのアウトドア教室をやっていたときの同窓会である。なんかつい最近会ったようなメンバーだったが、一応エリート風の江口さんがシンガポールから出張でもどってきたので、またまたション便横町で飲み会となった。

私はシンガポール帰りの友を迎えるのだから、熱帯風のアロハを着ていったら、皆にバカにされた。他の人たちだって似たような格好なのに。

 新宿に行くのに牛込神楽坂から歩いていった。途中西向天神社に行った。先日この神社にある富士塚の山開きの時に写真を撮って人だとばれた。ここに藤圭子の「新宿の女」の歌碑を発見。花園神社の富士塚には「夢は夜開く」の歌碑があった。

 ところで今日デジカメを買った。オリンパスμ20という防水型のものだ。これでとった我が家のナスの花。なかなかでしょう。これが第一の作品。

お富士さんの山開き

7月3日(木)
●7月1日は富士山の山開き。この日にあわせて都内の富士山も山開きをする。「都内の富士山ってなんだ?」と言われるかもしれませんが、江戸の時代には八百八講と言われるほどたくさんの富士講があった。講の人たちは、本物の富士山に行けない人たちのために、ミニ富士山をつくって、そこへお参りをしたのだ。

 現在、都内に残っているミニ富士あるいは富士塚は60個ほどであるが、大きなもので標高10m、小さなものは1mにも満たない。大きなものは昔は子どもの遊び場だったが、いまは柵で囲んで入れないようになっている。豊島区の長崎富士などは重要文化財に指定されており、厳重に囲われており、山開きの日でも入れないが、江古田の浅間神社などの富士塚は山開きの日にだけはお参りができる。

●日本百名山に全部登るのそれほど難しくないが、都内富士山に登るのはなかなか大変だ。1年に1回、7月1日しか登れないのだから、その日をのがすと翌年まで待たなければならない。それと高田富士のように1日ではなく23日が登山の日と決められている富士山もあるから、事前に十分情報を仕入れてから行かなければならない。

 私は6月の30日の宵宮から自転車で懸命に駆け回って、24カ所の富士山をめぐった。超忙しい登山だ。そのうちの半数以上は講が廃れているのでなんの行事も行われていなかった。しかしはじめて登って、感激した富士山もあった。以下におすすめ富士山ベスト5。

池袋富士 上の写真はその頂上である。ふだんは入れない。東上線北池袋から近い氷川神社にある。頂上でお経を上げているのはこの日にあわせて高野山からやってきたお坊さんのM島さん。富士講の創始者は角行で、富士の八合目にある人穴で修行をしたという。神道でも仏教でもない新しい世界観をもった新宗教であり、江戸の時代にもしばしば取り締まりを受けた。明治にはいると神道の一派になったが、弾圧をうけその後は廃れたという。なんで高野山のお坊さんがと思うが、江戸時代の富士講は仏教的色彩がかなり強かったようだ。
現在も、音羽富士のようにお寺の中に富士塚がある場合もある。

▲西向天神富士塚 新宿文化センターの裏手にある西向天神にある塚である。私が到着した11時に神主さんが奥さんと二人で祝詞をあげていた。お参りは私一人で、汗だらけで手を合わせた。神社の側からは2mほどの高さしかないが、道路から見上げると10mほどある立派な富士塚である。ここに参ったらついでに花園神社の富士塚を見るのもおもしろい。花園神社のどこにあると聞かれることが多い。明治通から入ったら右手に1.5mほどの小さな塚がある。藤圭子(昨日は藤純子と間違えて書いた)の歌碑が建てられていて、たのしい。新宿にはもう一つ鬼王稲荷に崩れた富士塚がある。マニアックな人しか知らない穴場である。

▲千駄ヶ谷富士 JR線代々木から国立競技場へ行く途中の鳩森八幡にある大きな富士塚である。ここはいつでも登れる。当日は入り口に一軒だけ屋台が出ていたが、なんだか寂しい山開きだった。立派な富士塚があるのだだからもっと盛大に山開きをすればいいのに。

▲駒込富士 これは本富士という場所、不忍通りと本郷通りの交差点にちかい場所にある。もともとは東大校内にあったものらしいが、ここに移転してから長い年月がたち、地元にもなじまれている。ここの山開きにはたくさんの屋台がでて賑わう。今年は雨で気の毒だった。急な階段を上ると上には浅間神社がある。ここではまだ講が盛んで、いまでも富士登山は続いている。ここにお参りしたら、本郷方面にすすむと名刹の吉祥寺があり、通りをわたると「目赤不動」がある。目黒、目白は山手線の駅名にあるが、目赤、目青、目黄、はどこにあるか知らないでしょう。赤は道坂(もともとは目赤不動坂)にあるのです。

▲十条富士 お富士さんと言ったら、ここが一番人気で、縁日は脇の道路はすべて閉鎖され、屋台はズラーと並び、埼京線の線路をこえて十条銀座まで続く。大勢の浴衣姿の女の子が屋台を眺めて回っている。一番目立つのは選挙のたすきみたいなのしたお母さんたち、たすきにはナントカ中学PTAと書いてある。お母さんたちの活躍の場だ。夜までにぎやかな明かりが輝いていた。日本の夏、お富士さ~んって感じだ。

●この他にも、江古田、小野照、品川、成子、練馬中里、などいい富士山があるのだが、それはまたの機会にして、今日の報告を終えます。都内くまなく富士登山はなかなか大変です。

有朋自インドネシア方来、

6月26日(木)
 またまたきのうも 有朋自遠方来、不亦楽乎 
 昨日は地平線会議の報告会で、冬のシベリアを自転車で横断してきた安東君の話だった。このはなしはどうしても聞きたかったのだが、もう一つ会いたい人があったので、会場にプロジェクターをセットして、安東君の真っ黒に雪焼けした顔を見たみただけで、次の会場に急いだ。

安東君はまだしばらく日本にいるだろうが、いま会う人はインドネシア人で、高校時代以来だから40数年ぶりのサッカー部仲間だ。

 なにを隠そう、隠していないか! 私は高校時代、サッカー部にいて関東大会の東京代表だったのだ。もっともわがチームが代表になっただけで、今の全日本のように個人が選抜されたわけではない。強いチームにいたということだ。

 私が3年生の時に、とてつもなく足の長い色の黒い新入生が入ってきた。その長い足でボールを器用に操っていたのが、アグスくんだった。足の短い上級生だった私と岡田くんはただあきれて彼のボールさばきを見ていた。彼にあったとたん40年前のその姿があざやかに思い出された。それまで頭の中のどの記憶装置に納められていたのだろう。

 彼の前後の期の連中が集まったのだが、数十年の時間の空白にもかかわらず、昨日のことのように、
「あの試合ではおまえがちょんぼしたから負けた」
などと声が飛び交った。今はなにをやってもあのころの感激はほとんどない。

 その当時はなにも思っていなかったが、記憶装置にしっかりと刻印されるような濃密な時間を過ごしていたのだ。そのことにいまごろ気がつき、久しぶりに充実した興奮状態が持続した。音頭をとってくれた吉崎君に感謝! 

秋川で退職祝い 賀曽利の嵐

6月23日(月)
21,22日、五日市秋川の山田橋の下に昔の仲間が集まって退職祝い(丸山さんが撮った写真をアップしてくれた)をしてくれた。

いまから25年前、キャンプ場の対岸に一反歩の畑を借りて、みんなでトウモロコシやナス、キュウリ、カボチャを作っていた。そのころはまだ20歳前後だった連中が今はもう四捨五入50歳にもなるおっさんになっている。時の流れは、秋川の流れのごとし。

流れの速さに時を感じ入っている時に、突然その時をそのまま変化させていない賀曽利おっさんがオートバイで登場。最初に清瀬で会ったときとまったく同じだった。

日本一周トリオ(土屋くん、杉田さん)と旧交をあたため、さらに露天風呂で体を温め、テンションを高め、嵐のように消えていった。私も、あの頃を思い出し、久々にググートとテンションが向上した。

 有朋自遠方来、不亦楽乎、(朋あり遠方より来たる、また楽しからずや)
うれしい一日だった。みんなは「これからなにをするのか」と期待している風だったが、期待に応えられるようなことはできそうにもない。

しかし何かしたい気分は高まってきた。いざ!と思うのだが、「2,3時間走ってくるか!」 という行動しかできない。こりゃまずい。

第3回 みわ塾

6月20日(土)
18日水曜日に「みわ塾」の第3回目を開催した。今回も35人もの方が集まって下さり、喜んでいただいた。(我田引水、自己満足) 遠く広島からも来た方もあり、感激!。

遠くといえばヴェトナムのホーチミン市から受講申し込みがあった。このホームページに講座内容をアップしてあるので、それをとって教材にして下さいと返答をしたところ、1回につき1000ドンを払うからヴェトナムまで取りに来てくれとのこと。近々集金に行かなければと思っている所だ。ところで1000ドンというのは日本円ではいくらぐらいなのだろう? 

8月のみわ塾は29,30,31日に清里の竹早高校の寮で緑陰講座を行うことにした。昼間は植物観察と飯盛山ハイキング、夜は星空観測。涼しい高原で遊びましょう。参加者募集中。

前橋の小林バン長

6月17日(火)
前橋に私のお友達の小林バン長がいる。ときどき社用で上京する。そのときに東京近郊の舎弟がゾロゾロと集まる。

ここ数年8月に玉原高原で家族キャンプをしている。その相談と称して、東京駅前の飲み屋でワイワイやる。ビジネス街の真ん中の飲み屋は6時にはおじさんたちで一杯だったが、8時をすぎるとほとんど貸し切り状態。手ぬぐいを首に巻いた「社長」たちの世界に浸ってしまった。

翌日、一月に一回の「仕事」みわ塾なので、二次会にはつきあわず帰ってきた。

 決定事項は8月10日前後に今年もキャンプをやる。ピザ焼きの煉瓦造りの窯を準備することとなった。

日の出山の上で「四方山会」

6月14日-15日(土、日)
 奥多摩の日の出山の上に東雲山荘という山小屋がある。ここで天野さん香川さん主催の「四方山会」が開かれ、話題提供者として呼ばれた。

老後の楽しみにやっている「みわ塾」の内容を短縮して話をさせてもらった。もし晴れていたら満月がみれたのだが、あいにくの雨。ビデオの天体画像を見てもらった。雨になったときのために、新しくビデオを買った。

いまのビデオはものすごい。わずか500g程度で、こんなすごいことができるなんてえらい。しばらくビデオを使う練習をしてみよう。

しまなみ海道100㎞ 完走

6月7日-8日(土、日)
  広島県の福山市から尾道を通り、しまなみ海道を向島、因島、生口嶋、大三島、伯方島、大島と通過して今治市までの100kmを走る「しまなみ100km遠足」に参加してきました。

 1999年に本州四国公団によって巨大な橋が建設された。NHKのプロジェクトXで放送された世紀の大工事だったが、いまは巨大赤字が重くのしかかり、お荷物になっている。

 私にとってはこの橋は、人が歩いて渡れるように立派な歩道が着いているのでありがたい。まあ歩道にこんな立派なものをつける必要はなかったと思うが、橋を架けること自体は、地元の人々のために重要だ。都会の連中は、地元の不便さが分かっているのかなあ。道をつくることは、政治の基本だと思うよ。
 それはともかく、今年も100kmを走ることができた。昨年より1時間以上も遅かったが、ほぼ13時間で到達できた。気分はよく、うれしかった。

 相棒の江本さんは暑かったのに1時間以上も早くなった。私より4歳も年上なのに、すごい。
 今年も「しまなみ海道」の記録を作ります。あとでここに載せますから、お楽しみに。

●競馬の馬が走るのなら金になるかも知れないが、人が走った話を聞いても喜ばないよ。

世の中からはみ出した!

6月1日(日)
 もう6月、フリーターになってから2ヶ月たった。毎日が日曜日なのだが、晴耕雨読で、けっこう忙しく、自分が世の中からはみ出したこと自覚する間もなかった。

 昨日、飯田橋のホテルで最後勤め先だった高校の歓送迎会があった。職員が100人以上いる大世帯なので、移動した方の話だけでかなりの時間がかかった。私はともかく人前でしゃべるのが苦手なので、早く終わらせてしまったが、後で考えると「自分はいま毎日が日曜日で、快適だ」と、他の人には嫌みと聞こえるようなことを言っただけで、皆様にご迷惑をかけたことへの感謝を言うのを忘れてしまっていた。

 ここ数年、人とあったあと必ず、自分のことだけをべらべらしゃべって、相手のことを何も聞かなかったことを反省することがしきりになる。そんなこと考えすぎだということはある程度分かっているのだが、どうしても気になる。

 この気分が高じてくると、もう2度と人に会いたくなくて、引きこもりになる。ここ2ヶ月は、引きこもっているのとおなじだったが、歓送迎会でお世話になった人たちに、ドドーッと会ったので、どぎまぎしてしまった。

 二次会にも誘われたが、それ以上しゃべっていると、落ち込みがひどくなりそうで、そそくさと家路についた。しかし家の方向はさらに鬼門のように思えて、足取りは重くなり、つい夜中の町をウロウロすることになる。

 今週は、福山から今治まで瀬戸内海を7つの橋でつなぐ「しまなみ海道」100kmを走る予定だ。走っているときには、精神はどんどん引きこもるので、何も考えなくてよい。
私はのべつ走っている時が精神的に健康なのかも知れない。

有朋自遠方来、不亦楽乎。

5月23日(金)  朋あり、遠方より来る
 白神山地の主の鹿内善三さんがやってきた。彼は昨年学校の先生を退職し、八戸の水産高校に入り、3月に卒業した。船長の免許も取り、第二の人生は漁師になるらしい。

 地平線会議が発足する前から、私は名前だけを知っていたが、5年ほど前、私の高校時代の親友斉藤雅弘君の息子と鹿内さんの娘が結婚していたことが分かった。

 孫の顔が見たくて時々東京にやってくると私の所にも寄ってくれる。今回はホッケの生干しと山菜の「ミズ」を持ってきてくれた。白神の人は酒が強い。我が家には珍しい「越の寒梅」があっという間になくなった。

 来月しまなみ100kmを走ることになっているのだが、この酒でだいぶ足の筋肉がとろけたような感じがするが、

 そんなことよりも、朋あり遠方よりきたる また楽しからずや!