■4-1 日向初代 いまならセクハラ親父だ!

高千穂に降臨した天孫ニニギ命はこの峰の上から韓国岳を眺め、笠沙の岬を見ていた。ちょうど笠沙の岬へ出かけた超美人の木花咲夜姫(コノハナサクヤヒメ)を見つけてプロポーズする。姫の父、大山津見(オオヤマヅミ)神は
「それはすばらしいことだ」
と言って、姉の石長比売(イワナガヒメ)と二人一緒に嫁に出した。ところがニニギ命は、自分が結婚したいのは美人のコノハナサクヤ姫で、器量の悪いイワナガ姫はいらないと言って姉だけを追い返した。今でいえばとんでもないセクハラ男、いや神だ。

当然のことだが大山津見神は怒って言った。
「イワナガ姫を嫁がせたのはニニギ命の子孫が岩のように丈夫で末長くあれと念じてのこと。送り返したので、ニニギ命の子孫は木の花のようにもろくはかないことになる」
ニニギ命の子孫の天皇の命が長くないのはこのようないわれがある。

韓国岳はお隣の韓国からとった名前ではなく古くある名前だった。2009年アキレス腱断裂の治療中に、奥さんに連れられ松葉杖をついて登った覚えがある。目の前に大きな火口がありその先にすっくと立った高千穂の峰を見て、これぞ天孫降臨の場と思った。
翌年韓国岳と高千穂峰の間の新燃岳が大噴火し、世間をにぎわした。その後に東日本大震災が起こったので新燃岳の噴火のことは何も報道されなかった。今はどうなっているのか?

火山噴火などはめったに起こるものではないが、南九州では桜島をはじめ活動的な火山がいくつもあって噴煙を上げている。肥前、肥後国は「肥国」すなわち「火の国」であった。古代においては「火」は敬うべきものだったのだろう。天孫降臨神話の中にも「火」の話が出てくる。

セクハラ親父のニニギ命は結婚したばかりのコノハナサクヤ姫が妊娠したと聞くと
「一夜の契りで子はできない。お腹の子は俺の子ではない!」
という。疑われた妻のコノハナサクヤ姫は怒り狂って言う。
「まちがいなくあなた(ニニギ命)の子です。神の子だから例え火の中でも無事に生まれます」

コノハナサクヤ姫は産屋に火をつけて燃え盛る火の中で三人の子どもを出産した。生まれたのは3人の男の子。

長男が火照命(ホデリノミコト)……海幸彦
次男が火須勢理命(ホスセリノミコト)、
三男が火遠理命(ホオリノミコト)……山幸彦

コノハナサクヤ姫は高千穂からも近い桜島の神であるが、今は富士山の神としても親しまれている。剛毅で気高いコノハナサクヤ姫は、先の大戦の時には大変人気があった。一方セクハラ親父のニニギ命は今も人気がない。まあ当然のことだが、天孫はなぜこんな人でなしとして描かれたのだろうか。私には理由は分からない。

ともかくこの二柱(ニニギ命とコノハナサクヤ姫)が天皇家の祖、「日向三代」の初代ということになる。しかし気になるのは、高天原の神と日向三代の神の関係だ。大山津見神は山の神、綿津見神は海人族の神さまである。日向三代の神さまの神話はおそらく南方の海洋民族の神話からもたらされたものだろう。天皇家の祖先は南方民族の血を引いていることを暗示しているのではないだろうか。

 

■4-2 日向二代目は竜宮城に行く! 

日向二代目は高千穂から離れて「竜宮城」に行く。
コノハナサクヤ姫が火の中で産んだ三人の息子の長男は山幸彦、三男は海幸彦と呼ばれる。本名は火照命(ホデリノミコト)火遠理命(ホオリノミコト)で、「火」の兄弟であるがあるが、なぜか山と海の関係になる。
海幸彦は漁師、山幸彦は山仕事をしていた。ある時山幸彦は兄の海幸彦に仕事道具を取り換えっこしてみないかと提案した。兄は大事な釣り針を貸すのは嫌だったが、山幸彦がしつこく頼むのでしかたなく貸してやった。ところが山幸彦は慣れない仕事のために大事な釣り針を魚に取られてしまった。

兄はそれ見たことかと怒った。山幸彦は十握の剣から500本の釣り針を作って兄に返すが、海幸彦は「もとの釣り針を返さないと許さない!」
と言った。
弟は塩椎神(しおつみのかみ)の勧めで、竜宮城に行った。
山幸彦が竜宮城の門の前にいると豊玉姫(トヨタマ姫)が出てきてひとめぼれをする。その時の様子を描いたのが青木繁の「「わだつみいろこの宮」の絵だ。宮崎県の青島の海岸を走っているときに写真のようなモニュメントを見つけた。青島の「鬼の洗濯板」の地層は竜宮城へ下る階段なのかもしれない。

竜宮城でトヨタマ姫から飲めや歌えの歓待を受け山幸彦は三年も過ごした。
ある日彼が「フーッ」とため息をついたのを見てトヨタマ姫は
「なにか心配事があるのですか?」
とたずねる。釣り針を探していることを告げるとトヨタマ姫は海の中の魚を集めて尋ねた。
「釣り針のありかを知らないか?」
すると釣り針は赤鯛ののどにかかっていることが分かった。

その釣り針を持って故郷に帰り、兄に返すことにした。
帰り際に綿津見(わたつみ)神は、山幸彦に言った。
「きっとお兄さんはあなたが成功したことをねたみ、恨んで攻めてきます。その時にはこの『塩満玉』を出して兄さんを溺れさせなさい。許してくれと言ったら『塩乾玉』を出して生かしてやりなさい」、
実際にその通りになり、お兄さんの海幸彦は
「これ以降、あなたの守り人になります」
と謝った。

この話も現代風に考えるとよくわからない。なぜ釣り針を貸した海幸彦が誅せられて、借りた釣り針を無くした山幸彦の方が栄えるのか?

海幸彦の子孫が南九州の「隼人」(はやと)族で、いまも溺れたときの仕態(隼人舞)をして天皇にお仕えしていると古事記には書いてある。古事記の時代から21世紀の現代でも隼人の子孫は天皇にお仕えしている。山幸彦の子孫が天皇に、海幸彦の子孫が隼人として天皇に仕えているのだ。

韓国岳付近から流れ出す天降川(あもり)は国分で錦江湾にそそぐ。天孫の「天降り」にちなんだ名前だが昭和になってからつけられた名前らしい。その川の近くに日豊本線の隼人駅があり、さらに隼人塚がある。いまも薩摩隼人、大隅隼人などと呼ばれることがあるが海幸彦の末裔なのだ。

 隼人の近くの国分に「上野原縄文の森」という遺跡がある。南九州に珍しい縄文遺跡で定着した海洋民族がつくった集落があった。珍しいというのは、7300年前の鬼界カルデラの大噴火で南九州の縄文人はほとんど絶滅したからである。ごく少数の生き延びた人々はカルデラ噴火による津波で溺れた記憶がのこっていたかもしれない。上野原縄文人の脳の中に刻まれた洪水記憶が隼人舞として伝えられのではないかと考えている。

鬼界カルデラからの火山灰はアカホヤと呼ばれている。この火山灰は関東地方まで飛んでいる。この火山灰を研究したのがわが恩師の町田洋さんだ。大学時代にフラフラ遊んでいないで町田先生にくっついて研究していれば、こんな遺跡の発見ができたかもしれない。いまさら何を言っているのか・・・!

 

■4-3 日向三代目のトヨタマ姫はワニだった!

  山幸彦は赤鯛ののどに引っかかっていた「釣り針」をもって竜宮城から戻ってきて、兄の海幸彦に返した。しかし大成功した弟に対して不満を持った海幸彦は山幸彦を攻めてきた。山幸彦は綿津見神のアドバイス通り塩満玉を出して兄を溺れさせた。降伏した海幸彦を配下にして、山幸彦は海も支配することになった。

山幸彦の海辺に宮殿を作った。その宮殿に山幸彦の子を身ごもったトヨタマ姫がやってきた。山幸彦のもとで子供を産む計画だった。まさか追っ掛けてくるとは思っていなかった山幸彦はおおいそぎで産屋を建てようとした。しかし屋根を鵜の羽で葺く前に子が生まれてしまった。この子が鵜葺屋葺不合(ウガヤフキアエズアエズ)命である。「産屋の屋根を葺く前に生まれちゃった子」といういい加減な名前が付けられた。

青島神社から日南海岸を都井岬の方に進んだ断崖海岸に鵜戸(うど)神社がある。海に向かった断崖絶壁に開いた洞窟の中に朱塗りの立派な神殿がある。トヨタマ姫(豊玉姫)がお産のために海の宮殿から屋てきた場所なのだろうか。

トヨタマ姫は山幸彦に言う。
「子を産む私の姿を見ないで!」
山幸彦は「見るな」と言われたらよけい見たくなる性格だった。当然覗いてみた。トヨタマ姫はワニの姿で這いまわっていた。
「見るなと言ったのに見たワニー!」
姿を見られたトヨタマ姫さんは恥じて、子どもを置いたまま海の宮殿に帰った。

鵜戸神宮の産屋の洞窟の床は、天井から滴り落ちる水で濡れ、磨かれている。薄暗い洞窟内を見ると、ワニの姿で床を這いまわりながらお産をしている姿を思い浮かべ、不気味になる。しかしワニは爬虫類だから卵を産むはずだ。でもまあ目くじらを立てるほどの事でもない。因幡の白兎の話にも出てきた「ワニ」、たぶん海洋民族の和爾氏のことなのであろう。

水の滴る産屋でワニがはい回りながら子を産む姿を想像するとかなり恐ろしいので早々に引きあげた。しかしこの強烈ワニパワーにひかれて、大勢の若い人たちがやって来ていた。鵜戸神社は日本古来の神社と違ってなかなかユニークな神社である。ここで産まれたウガヤフキアエズアエズ命が日向三代目で、日本国の初代天皇のお父さんである。

神社の背後の山の上にはウガヤフキアエズの墓がある。神さまにも墓があるのか疑問もわくが、日向三代は神と人間をつなぐ役割を持った神々なので、墓があってもおかしくない。海から登るとかなりの高低差で、大変きつい。軽い気持ちで登ったが、汗びっしょりになった。
宮内庁は「陵墓参考地」として保護している。しかし私が見たところでは、これは古墳ではなく、ただの山の頂上。しかし神の依り代としては、いい場所だった。

日向二代目は燃え盛る火の中で生まれ、三代目はワニのお腹から生まれる。いずれも尋常なお産ではない。その意味するところは何なのか、私にはよくわからない。でもまあ古事記にはそう書かれているのだからしょうがない。

 

■4-4 日向四代目、初代天皇の誕生

  さて四代目の誕生であるが日向三代の神話の続きには詳しく記されていない。鹿児島と宮崎の海側の神社には日向三代のご夫婦が祭られているのだが、第四代をまつる神社はその地域のどこにもない。宮崎神宮には第三代のご夫婦(ウガヤフキアエズ命とタマヨリ姫)とその子である神武天皇が祀られている。しかし宮崎神宮は明治天皇が王政復古を掲げて作ったものだから歴史はない。

実は日向四代目を祭るのは宮崎県高千穂地方の高千穂神社が一番重要である。高千穂には天の安河原や天岩戸神社など高天原の伝承の地もあり、天孫が降臨したという「久士布流多気」もある。私は近くの九重山が「クジフル」にあたるのではないかと思っている。古事記の記述には天孫が降臨したのは高千穂の「クジフル岳」となっている。高千穂地方の神話には日向三代の話は出てこない。天孫の子孫である鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の子がのちの神武天皇であるとされており、竜宮城のことは除外されている。

四代目の系図はちょっと複雑である。出産の姿を見られた母トヨタマ姫は生まれたばかりの子を山幸彦の宮殿に置いて竜宮城に帰った。しかしトヨタマ姫は残してきた子が心配で、妹のタマヨリ姫(玉依姫)を乳母として地上に送った。乳母のタマヨリ姫の育児のおかげでウガヤフキアエズ命はすくすくと育った。成人した彼は、育ててくれた乳母のタマヨリ姫と結婚する。すなわち母の妹と結婚したのだ。

結婚した二人の間に四人の子どもができた。
長兄はイツセ神、次の兄はイナヒ命、その次がミケヌ命で、一番下が、のちに神武天皇になる若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)である。すぐ上の兄の御毛沼命(ミケヌ命)が高千穂神社の主祭神で、地元のために働いた神さまである。
その順番と祀られている神社を示しておこう

◆日向初代 ニニギ命=コノハナサクヤ姫、・・・霧島神宮、鹿児島神社
◆日向二代 山幸彦=トヨタマ姫、・・・青島神社
◆日向三代 ウガヤフキアエズ命=タマヨリ姫・・・鵜戸神社
日向四代目は日向の高千穂神社に祀られている。

日向の三世代からひきつづいて、ワカミケヌが日本の初代天皇、神武天皇になる。
ということは、日本の初代天皇はワニの孫ということになる。
前に因幡の白兎の時に書いたが、ちちろんワニは「和邇」一族の事だろう。

たぶん、海人系の和邇族が話の根底にある。天皇家の祖先は高天原系と大山津見神、綿津見神などの海人系統と混血していったことが伝えられているのだろう。
日本の国を支配するためにはただ天下りではうまくいかない。地の神、海の神と協力して築いていったことを示している。

■4-5 日向四代目、神武の船出

「宮崎」という地名は宮崎神宮の前にある町としてつけられた名前で、明治以前には「日向」と言った。宮崎「神宮」とある通り、初代の神武天皇を祀る神社である。昭和天皇をはじめとして皇族の方々の参拝も多かった。しかし江戸時代には地方の小さな社だった。明治維新の王政復古「神武創業の始め」の大号令がかかり急に脚光を浴び、明治六年には神武天皇の最初の宮として特別待遇をうけ、八年に国幣中社、十八年には官幣大社へと破格の大出世をした。

2013年にここを訪れるまで、日向一宮は当然この神社だろうと思っていたが、実際は少し北にある都農(つの)神社が一宮だった。都農神社は天津神ではなく国津神の総帥大国主神を祭っている。このことはどう説明すればいいのか。宮司さんは
「都農神社の大国主神にお祈りをして、神武さんは美々津から船出したんですよ」
と説明してくれた。

今でこそ宮崎神宮の方が格上だが、神武のころにはまだ都農神社しかなかったのだ。美々津港から神武軍は船出した。港の脇には「日本海軍発祥の地」が立っている。   耳川河口の立磐神社にある神武天皇が座ったという腰掛岩に触ってみた。大きな岩だ。神武天皇はさぞ身長も高かったのだろう。
近くのレストランの展望テラスでは、地元のおじさんが
「神武天皇の船はあの岩の向こうを回って出て行ったんだ!」
と沖の岩を指して、見てきたような説明をしてくれた。
この地では神話は完全に歴史とされている。神話を身近に感じて生活する。心の中にご先祖様を描きながら生きるのは悪いことではない。なかなかいい感じだ。

ワカミケヌ命(のちの神武天皇)は兄の五瀬(イツセ)命と相談をした。
「ご先祖の天照大神との約束の地である出雲に行こう」
日向を発って、まず豊(トヨ)の国の宇沙(うさ)に向かう。豊前の宇佐神宮のことである。辺鄙な田舎に住む兄弟が、巨大国家の出雲に向うのだから、各地で仲間を集めなければならない。当時宇沙には大きな勢力があった。

イツセ命と神武の兄弟は、宇沙から出雲に行くために関門海峡を抜けて、北九州の岡田の宮に向かった。しかし彼らは岡田の宮から再び関門海峡をもどって瀬戸内海にはいり、安芸、吉備に向かう。
関門海峡は狭くて流れも速い。今でも航海の難所である。そこを古代の船で行き来するのはあまりにも危険が伴う。なぜ関門海峡を行きつ戻りつをしたのだろう。

情報が少なかった田舎出身の神武軍は玄界灘に面した岡田の宮で
「国の都はいまでは出雲から大和に拠点を移っている」
という新情報を得た。
日本海沿いに出雲に行くためにやっとのことで関門海峡を越えたが、目的地を大和に変えて再び海峡を戻って瀬戸内海をへて浪速に向かったのだ。神武が難所の関門海峡を行き来したことへの私の説明である。

この後、神武天皇は安芸のタケリノ宮、吉備の高島宮を経て大和へ向かう。その間の話は次章に譲る。

この章では天孫降臨した日向の国での三代にわたる歴史をたどった。しかし日向各地を回ってみて、宮崎県の高千穂以外の「歴史」はとってつけたような気がして、違和感がある。それは天照大神、大国主神の物語がまるで感じられないからだ。私の「三輪の神紀行」に日向三代はなくてもいいかなと思った。

しかしよく考えると神話というのは時間と距離は関係なく様々に話が展開するからおもしろいのだ。初代天皇のお父さんはワニから生まれたなど突拍子もないことが描かれるのが神話である。ワニは爬虫類だから子どもは産まないなどと目くじらを立てることはないのだろう。

第4章 日向三代はこれで終了。日向三代の活躍の地は広かった。おかげで南九州各地を走り回ることができた。かなりの時間はアメリカ大陸を走って横断したジャーニーランナーの下島伸介さんに助けてもらって実際に走った。自分の足で地面を測るといろいろなものが見えてきた。もう一人忘れていた。アキレス腱断裂後松葉杖で韓国岳に登った時には三輪倫子さんにも介助をしてもらった。それぞれ感謝!

第5章では瀬戸内海を大和に向かう神武天皇の話である。その他にもう一つ九州から大和に向かった神功皇后の話にも踏み込もうと思っている。乞うご期待!

第3章 豊葦原瑞穂の国の抗争劇

■3 出雲の平野は遠くから引っ張ってきた!

三輪山に鎮座する大物主神、大国主神、少彦名神の三柱の神は出雲出身であると聞いた。そこで神さまのふるさと出雲に行ってきた。しかしそこで見聞きしたことは、私の先入観とは大きく違っていた。
大国主神は国津神の総帥で大物主神と少彦名神が協力して出雲の国をつくったとばかり思っていた。ところが出雲では大国主神の姿は少なく、スサノオ神、伊邪那美神など天津神の活躍ばかりがめだった。

私の思い違いの一つは、今の出雲市と古代出雲の場所が違うことだった。古代出雲の国府は意宇(おう)の風土記の丘の近くにあった。そこには条里が整った広い平野、豊葦原瑞穂の国が広がっていた。この広い平野は太古の時代からあったものではなく中国山地から流れ出した土砂が積もってできた沖積平野である。新しく作られた土地であることを古代の人たちは知っていたのだ。出雲神話に新しい陸地ができたことが語られている。

この地に住む八束水臣野命(ヤツカミズオミツノミコト)という神が三瓶山を杭にして大綱で朝鮮半島から日御碕を引っ張ってきた。その大綱が国引き浜(引佐の浜)である。さらに弓ヶ浜を大綱に見立て大山(だいせん)に足をかけて、「よいしょ」とひっぱった。
「やったぜ! おう!」と言ったかどうかはわからないが、この地は「意宇」(おう)と呼ばれるようになった。
引っ張ってきた陸地(島根半島)と本土の間には海峡ができたが、両側には大綱に見立てた砂州が伸びていき、海峡の両側を塞いで、平野ができたのである。豊葦原の瑞穂の国は神さまの「国引き」のおかげで成立したのだ。

 埋め立ての進行には時間差があった。最初は意宇に広く豊かな平野はでき、のちに現在の出雲大社のある場所に豊かな国が作られた。意宇にあった出雲国造(昔の国主)家も新しい出雲大社(当時は杵築大社と呼ばれていた)に移転した。
もしかすると大昔に意宇国と出雲国があって勢力争いをした結果、政治の中心が出雲大社に移ったことを示しているのかもしれない。

いずれにせよ、豊葦原瑞穂の国は豊かであったために勢力争うがしばしば起こったのだ。影の薄かった大国主神も大物主神も少彦名神も一時期勢力を持った一族の長(おさ)だったのだ。

出雲を訪れてみたら、出雲神話はスサノオと八岐大蛇との抗争、大国主と因幡白兎連合との抗争、大国主とスサノオの抗争、大国主と天照大神との争いなどの抗争を物語したものだということがよく分かった。豊かな国というのはいつの時代も周りから狙われるのだ。

■3-1 最初の抗争 八岐大蛇を退治!する

3-1 スサノオが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する

高天原で伊邪那岐神から海を支配するようにと言われたスサノオ神は
「母の伊邪那美神のもとに行きたい!」
とわがままを言った。
父伊邪那岐神は、別れた妻伊邪那美を慕うなんて許せないと怒り、スサノオ神を高天原から追放することにした。
しかしスサノオ神は居座って、姉の天照大神と「誓詞(うけひ)」で正邪を決することにした。

天照大神はスサノオの剣を噛み砕いてプッと吹くと三柱の女神が生まれた。
その名は多紀理姫(タギリヒメ)、市寸嶋姫(イチキシマヒメ)(弁財天)、多岐都姫(タギツヒメ)通称宗像(ムナカタ)三女神である。

スサノオ神は天照大神の勾玉を噛み砕いて吹くと五柱の男神が生まれた。
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(オシホミミ)、天之菩比命(アメノホヒ)、
天津日子根命(アマツヒネコ)、活津日子根命(イクツヒネコ)、熊野久須比命(クマノクスヒ)である。

この神さまの名前をワープロ打つのはちょっと大変。以後は省略してカタカナで示すことにする。正勝吾勝の名前がしめすように、天照大神の方が「うけひ」では勝ったはずなのに、スサノオは自分が清い心を持っているから女神が生まれたといい、自分の正義が証明されたと言って高天原に居座り、天照大神の侍女たちに乱暴狼藉を働いた。
驚き怒った天照大神は岩屋の中に隠れてしまった。
前の章で述べた高天原の大事件、「天岩戸隠れ」である。

天照大神の岩戸隠れが解決した後、大事件を起こした張本人(神)のスサノオは全財産を没収され髭を抜かれ爪をはがされて高天原を追放された。
高天原の極悪神スサノオがたどり着いたのが出雲の簸川(ひかわ)上流だった。豊かな出雲を治めていたのは老夫婦だったが近隣の遠呂智族からたびたび侵略をうけていた。神話では遠呂智族は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)という頭と尾が八つに分かれた大蛇と言いうことになっている。

スサノオ神は嘆き悲しむアシナズチ、テナズチという老夫婦の話を聞く。近々娘のイナダ姫が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の人身御供になるのを嘆いていたのだ。これまで7人の娘がヤマタノオロチに食われてしまい、イナダ姫が最後の娘だと聞いたスサノオはイナダ姫を嫁にすることを条件にして、八岐大蛇と戦うことにした。神さまと言っても、そう簡単には相手を倒すことは難しい。スサノオは策略をめぐらす。

アシナズチ、テナズチに指示し、強い酒を八個の酒樽に入れて門の前に置きヤマタノオロチが現れるのを待った。やってきたヤマタノオロチは八つの頭を酒桶に突っ込んでがぶがぶ飲んだ。完全に酔っ払ったのを見計らってスサノオは十握の剣(とつかのつるぎ)でヤマタノオロチ(大蛇)をバラバラに切り刻んだ。簸川は大蛇の血で真っ赤になった。切り刻んだ大蛇の尾からすばらし太刀が出てきた。

スサノオはこれを「ツムガリの太刀」と名付け、高天原の天照大神に奉納しお詫びした。その剣は高天原で「天の群雲の剣」と名付けられ、その後に大和のヤマトタケルにわたり今度は「草薙の剣」と名づけられた。現在この剣は尾張の熱田神宮に納められている。天皇家の三種の神器の一つだが、なぜ熱田神宮にあるのかよくわからない。一方「十握の剣」は「布都(ふつ)御魂」とよばれ、大和の石上神宮のご祭神になっている。

ヤマタノオロチを退治したスサノオ神はイナダ姫と結婚する。アシナズチ、テナズチの豊かな国の支配を任されたことになった。

 

■3-2 スサノオ神とイナダ姫は新しい宮殿を探す

 スサノオは人身御供になりかかったイナダ姫を助け、嫁にする。出雲の姫を嫁にしてスサノオ神はこの国の盟主になり、新しい宮を作り始めた。その時作ったのがこの歌である。
「八雲立つ 出雲八重垣妻込みに 八重垣造る その八重垣を」
なんだかよくわからないが、日本の和歌のはじめとして知られている。

意宇にはスサノオとイナダ姫の新宮殿と言われる場所がいくつかある。まず八重垣神社にいった。二人の新居は縁結びの神社として名高い。イナダ姫が隠れていた「鏡の池」に占いの紙を浮かべている女性を見た。真剣に紙が沈むのを見つめている。速く沈んだ方が速く縁づくという縁結びの占いだ。その女性は紙の上に百円玉を載せている。重い方が速く沈むので、みな百円を載せるそうだ。占いに没頭している女性を見ると、
「出雲の縁結びの話は室町時代にできた俗信ですよ!」
などとは言えない気持ちになった。

スサノオとイナダ姫が歌った「八雲立つ出雲八重垣・・・」の歌の後、
「ここは清々しい場所だ、ここを宮殿にしよう!」
と言ったという。その地に須我神社が作られている。
神話の話なので新居はどちらでもいいが、須我神社で聞いた磐座(いわくら)の話はおもしろかった。三輪山でも見たように「磐座」(いわくら)に神が降臨するという信仰がある。自然崇拝、特に大きな岩を神聖視する信仰だ。
須我神社の社殿から1キロほど離れた山の中に磐座がある。意宇地方を歩き回って疲れてはいたが、磐座好きの私には魅力的な話だった。山へ続く長い階段を上ったら、「しめ縄」をめぐらしたすばらしい岩があった。私的にはこの磐座がスサノオ夫妻の新居だったような気がしている。

しかしさらに新しい話を聞いた。出雲一宮、すなわち一番由緒ある神社は意宇の奥の雲南市にある熊野大社だそうだ。雲南と言っても中国の少数民族の住む地方ではなく、出雲の南という意味でつけられた名前である。
なぜ出雲に熊野神社なのか? 熊野といえば紀伊半島の熊野大社だろうに。熊野古道歩きを趣味としている私は当然紀州の熊野が本家かと思っている。しかし出雲の熊野神社は出雲一宮であり由緒も正しい。どちらとも言い難いようだ。ついでながら「クマ」は天照の5人の息子の末弟の名前である。南九州の球磨(くま)地方、あるいは熊襲(クマソ)などと関連がありそうだ。

さらについでに、熊野神社を含め意宇にある「狛犬」は尻尾を逆立てて威嚇するような形であることを指摘しておこう。私は逆立ち狛犬と呼んでいる。穏やかな姿ではなく、敵に対抗威嚇するような感じである。抗争の地なので狛犬にも影響しているのかなと思う。もちろん狛犬の歴史はそんなに古いものではない。

■3-3 豊かな国を支えた荒神谷遺跡


私が勝手に推測しているが、スサノオが持っていた
「十握の剣は青銅器の剣」
八岐大蛇が持っていた
「ツムガリの太刀は鉄剣」
だった。
出雲の豊かな土地を奪おうとしていた遠呂智族は中国山地でたたら製鉄をしていた氏族で、当然鉄の武器を持っていた。青銅器主体の武器を持つ出雲のアシナズチ一族では勝ち目はなく、遠呂智族のたびたびの侵略を許していた。そこへスサノオ神が助っ人にきた。スサノオ神はまだ青銅剣しか持っていなかったので、策略でしか勝ち目はない。八岐大蛇を酔わせて切り刻んだ。

意宇を回った翌日、友人のYさんの車で遺跡巡りをした。
「荒神谷遺跡を見た?」
と聞かれたが、何のことかわからなかった。
日本史の先生であったYさんから荒神谷遺跡の意義を学んだ。考古学的に見たら「出雲」という場所は大変な場所だった。古代日本はすべてここに集まっていたかのように大量の遺跡が見つかっている。まず青銅器についての即席知識をひけらかしておこう。

▲荒神谷青銅器遺跡
1984年に弥生時代の「青銅剣」が358本、銅矛16本、銅鐸6個が斐伊川の近くの荒神谷で発見された。これ以前に全国で発見された銅剣は300本だった。一か所でそれ以上が見つかったのだから驚きだ。もちろんこの青銅器は国宝になった。
▼加茂岩倉遺跡の銅鐸
1996年荒神谷のすぐ近くに「銅鐸」(どうたく)が39個も発見されている。それまでは近畿圏で発見された14個が最高だったので、これも国宝になっている。

歴史の教科書では「銅鐸」は近畿を中心とした文化圏、「銅剣、銅矛」は北九州文化圏と区分していた。しかし荒神谷、加茂岩倉遺跡から大量の銅鐸、銅剣が一緒に発掘され、近畿文化圏、北九州文化圏などの区分は疑わしいものになった。出雲文化圏と言った方がいいかもしれない。
出雲では青銅器のあとに鉄器文化が入ってきたものではなく、一緒に共存していたことが神話の記述でわかる。私のスサノオの剣が青銅器製であったという説は少しだけ信ぴょう性があるかもしれない。

ついでにもう一つ足で仕入れた考古学的な遺跡について述べておく。
それはとても珍しい西谷墳丘墓という古墳だ。
荒神谷遺跡から斐伊川を渡ったところにあった。大和、河内や吉備で見なれた円墳や前方後円墳ではなく、上部が平らで方形、さらに四隅に耳がついた不思議な形である。
「四隅突出型弥生墳丘墓」
というそうだ。
よく整備された古墳群に登ってみると眼下に出雲高校グランドが見える。九号墓が一番大きくて六〇×五〇メートル、高さが五メートルもある。二号墓、三号墓は復元がなされふき石が張られており、上ることも、玄室へ入ることもできる。

三号墓と四号墓からは大量の土器類が見つかっている。弥生時代後期「吉備産」の特殊土器が発掘されており、二世紀末から三世紀にかけて築造されたことが分かっている。
二世紀から三世紀といえば……
史実にあるヒミコのちょっと前の時代だ。三輪山のふもとの巻向(まきむく)の箸墓(はしはか)古墳は三世紀に作られたものだから、出雲の古墳の方がちょっと古いことになる。巻向のヤマトの文化はここ出雲から出たものだという可能性はある。

こんな立派な古墳を作ることができたのは、進んだ青銅器、鉄器などの農具をいち早く取り入れて耕作をすることができたからだろう。出雲地方は古代の最先端地域だったのだ。

 

 

■3-4 因幡でも抗争。大国主神がやってきた!

2013年5月、出雲空港から出雲大社に行って遷宮の様子を見ようと思っていた。しかしその前後のチケットは完売で、私は鳥取空港から列車で行くしか方法はなかった。
しかし結果的にはこれは大変良かった。というのは出雲の盟主である「大国主神」は鳥取県(因幡)の国から島根県の出雲にやってくるのである。その足跡をたどることができて幸運だった。

「大きな袋を肩にかけ、ダイコクさまが来かかると……」
という唱歌が聞こえてきた。
山陰道(国道九号線)に白うさぎと大国主神の像が立つ道の駅からの音だった。道の駅の奥の高台に白兎(はくと)神社がある。観光用の新しい神社かと思ったが、昔からある由緒正しい神社だった。

のちに出雲の神さまになる大穴牟遅(おおなむち)は、いじわるな兄神たちに大きな荷物を持たされ、因幡の海岸を歩いていた。大きな荷物が重たいので、兄たちに遅れてやっと気多(けた)の岬に着くと、そこには皮をむかれたウサギが泣いていた。

大穴牟遅が「どうしたのか」と尋ねる。ウサギは隠岐の島に住んでいたが、海を渡って因幡の国に来たかったので、ワニを呼び出し、一列に並べて、「数を数えてやる」と言ってだました。
ワニの背中を飛んで因幡の海岸につく直前に
「やーい だまされた! 海を渡りたいので、お前らを並ばせただけだ」
とつい言ってしまった。

それを聞いたワニがウサギを捕まえて、怒りにまかせて皮を剥いだのだ。
先に通りがかった大穴牟遅の兄神たちは、かわいそうなウサギに
「海水に肌を浸して、太陽にあたると治る」
とウソを言った。その通りにすると肌が赤くなって痛みが増した。
いじわる兄たちと違って、最後尾にいた大穴牟遅は優しく、
「真水に肌を浸して、蒲の穂に包まっていれば治る」
と言った。ウサギがその通りにすると元通りの白ウサギに戻った。

喜んだウサギは大穴牟遅に、
「兄神たちは因幡の八上比米(ヤガミヒメ)と結婚しようとしているが、無理でしょう。八上比米と結婚するのはあなたです」
と告げた。
白うさぎの予言の通り、大穴牟遅は八上比米と結婚した。大穴牟遅神の最初の奥さんである。

昔から日本に「ワニ」はいない。山陰地方では「フカ」のことを「ワニ」と呼んでいる。古事記の作者はフカがウサギの皮をはいだと言いたかったとの珍説があるが、ワニは「和邇」族、ウサギはたぶん「宇佐」族のことを伝えたものだろう。和邇族も宇佐族も海洋系の渡来民族で、彼らの力をたばねて日本国が出来上がったことを神話にしたものだ。現在は「和邇」は奈良の近くに、「宇佐」は九州四国に地名が残っており、古代豪族にもその名がある。

白ウサギの予言どおり、大穴牟遅は八上比米(やがみひめ)と結婚する。ふられた兄神たちは怒って、大穴牟遅をめちゃめちゃにいじめる。紀州のイタキソ神社の五十猛神のもとに逃げるが、そこまで兄神たちは追ってくる。

大穴牟遅はついには黄泉津比良坂(よもつひらさか)の先にある黄泉(よみ)の国に追いやられた。黄泉の国は、根の国とも呼ばれる死者の国。
大穴牟遅は殺されてしまったのだ。

「因幡の白うさぎ」の話は、めでたしめでたしではなく、いじめ殺される悲劇である。 因幡の国でも血で血を洗うような凄惨な抗争があったことを示している。

■3-5 大穴牟遅は黄泉返って大国主神になる。


「殺されました! はい終わり!」
では神話的ではない。実は大穴牟遅命は黄泉の国から帰って来る。すなわち黄泉がえる(蘇る=よみがえる)のである

黄泉の国の入り口「黄泉津比良坂(よもつひらさか)」はJR山陰本線で松江から三つめの揖屋(いや)駅の近くにある。
駅を降りて旧山陰道を安来(やすぎ)方面に歩き、揖屋神社の先の山陰線のガードをくぐった谷戸の奥に入り口の大岩があった。「瞬」(またたき)という北川景子主演の映画の撮影地で、「聖地」となっているそうだ。
坂の上の方から上から大挙して若い女性が下りてきた。なにごとかと尋ねると
「出雲の聖地巡りツアーです!」
とはしゃいでいる。

出雲にはパワースポットが多くある。最近は「聖地」と呼ぶ。黄泉津比良坂のパワーは出雲大社と同じパワーがあるそうだ。しかし映画のポスターにあるような霊に取り付かれたら恐ろしい。雨が降る夜、一人ではとても訪れることなどできない不気味な場所だ。この黄泉津比良坂にはマイナスパワーが充満している感じだ。大急いで下りてきた。
出雲神話では、兄神たちの意に反してヤガミ姫と結婚した大穴牟遅は、いじめ殺されて黄泉津比良坂を下って黄泉の国にいく。古事記では「根の国」となっている。

大穴牟遅はモテモテ男で、根の国にきてすぐにスセリ姫と良い仲になった。
スセリ姫はスサノオと人身御供になりかかったイナダ姫の間にできた娘だった。父親に
「すばらしい男性といっしょになります!」
と報告した。
スサノオ神は大穴牟遅を見て、
「この男は葦原醜男(あしわらしこお)だ」
と言って、スサノオに無理難題をふっかける。
毒虫うじゃうじゃの部屋に入れられたり、焼き殺されそうになったりする。しかしそのたびにスセリ姫が助けてくれる。しかしさらなる試練を与えられる。
ある時、大穴牟遅がスサノオの髪の虱をとってやった。するとスサノオは気持ちよさそうに寝てしまう。そこで髪の毛を宮殿の柱に結び付け動けないようにして、スサノオの財産とスセリ姫を背負って逃げ出した。
スサノオの沼琴が大きな音を奏でたので、スサノオは起き上がった。髪をほどいて追いかけてくるが、二人はすでに黄泉津比良坂から地上に出かかっていた。
スサノオは追うのをやめて、大きな声で
「スセリ姫との結婚を許す!葦原中国はお前が統一しろ!以後は大国主神と名乗れ!そして高天原に届くほどの高い柱の宮殿を建てて住むのだ!」
とはなむけの言葉を贈った。
これで大国主神はスサノオ神が納めていた豊葦原瑞穂の国の跡継ぎになった。めでたし、めでたし。

 

■3-6 出雲大社は豊かな出雲の象徴

大国主神がスサノオから継承した出雲の国もすぐに安定したわけではない。まずガガイモ葉っぱの舟に乗って美保岬にやってきたのが少彦名という神である。この神は一寸法師のモデルであるが、彼が最初に大国主神を手伝って国造りを行うのである。
あまり有名な神ではないが、東京の神田明神の神さまである。この小さな神が何の象徴かあまりよくわからない。その神は国が安定する前にすたすたと黄泉の国に行ってしまった。
大国主神が困っているとやはり海のかなたから光り輝いてやってくる神があった。
「私の魂をお祭りしたら、国造りを手伝おう! もしそれができなかったら国造りは難しい」
と言う。大国主神は
「どうお祭りしたらいいのでしょうか?」
と尋ねると
「大和の東の山の上に祭れ!」
と言った。大和の東の山とは三輪山の事である。
ここでやっと三輪山の磐座に三柱の神が祭られて理由がわかった。しかしまだなぜ出雲の国を作るのに、大和の話が出てくるのかどうにもわからない。
ともかく三柱の神々のおかげで出雲国は素晴らしい国になった。

2013年5月10日、出雲大社の遷宮は夜に行われるので、私は昼間のうちに大社のお参りした。昔訪れた国鉄の大社駅は立派だった。国鉄の大社線は廃止され、いま鉄路は一畑電鉄のみになった。観光バスや自家用車でやってくる人がほとんどだから駅からの参道を歩く人は少ない。
出雲大社の参道には四つの鳥居がある。ふつう四は死を意味するので忌み嫌われるが、もともとが「根の国」(黄泉の国)にある神社だから気にしていない。大きな一ノ鳥居を過ぎ、商店街を抜けて、二ノ鳥居のある勢溜(せいだまり)まで緩やかに上っていく。参詣人はあまり気にしないが、歩く人にはけっこうきつい。来た道を振り返ると、ずいぶん高い所にあるのがわかる。
二ノ鳥居は立派な銅製の鳥居で、それをくぐると参道は下り坂になる。その先に銅製の三ノ鳥居、四の鳥居がある。鳥居をくぐった後に拝殿にでる。たいていの神社は参道の先の石段を上るが、出雲大社は下って社殿に行く。私は下野一宮の貫前崎神社で経験したが、下り参道は珍しい。この神社様々な点でふつうの神社とは違って、おもしろい。
拍手もふつう二礼二拍手一礼だが二礼四拍手一礼である。九州の宇佐八幡宮も同じだが、これも珍しい。この時は気がつかなかったが、大注連縄の巻き方もふつうとは反対だという。
さらに出雲では暦も異なっている。10月は神無月と呼ぶが、ここ出雲に八百万の神々が集まってくるので出雲暦の10月は「神在月」である。全国各地の神さまは地元神社を離れ、ここ出雲に集まり、大社の宿泊所に泊まって、一ヶ月間縁結びの作業をする。もちろん中世になって作られた俗説だが、その方がお参りの人には受けがいい。

出雲大社は縁結びの神社として全国に知られている。神さまは、海の彼方から稲佐の浜(国引きをした大綱)に上陸し「神迎え道」を通って神社にお越しになる。高天原の神は「天の浮橋」をとおって地上に降臨されるが、日本古来の八百万の神は舟にのって海を越え、稲佐の浜に屹立する弁天岩を目指してお越しになる。

出雲にお越しになる神様は高天原系の天津神(あまつかみ)ではなく、日本にもともとおられた国津神(くにつかみ)である。国津神の総帥が大国主神ということになっている。

5月10日の夜、大国主神が御仮殿から新装なった本殿へ移られる「本殿遷座祭」がおこなわれる。遷座祭には八千人が招かれているが氏子でもない私たちは宿に帰ってテレビで見るしかない。七時半からNHKで中継するので友人にVIDEOを頼んでおいたが、後で聞くとニュースでちょっと写っただけだったという。天津神の伊勢神宮遷宮は国民的行事だが国津神の遷宮はローカル扱いだ。少々というか、かなり残念なことだ。

拝礼の前から気が付いていたが、御仮殿には注連縄はあるが、前に来た時に記憶していたあの大注連縄(長さ一三・五メートル、太さ八メートル、重さ四・四トン)がない。あの注連縄こそが出雲大社の特徴だと思っていたが、神楽殿には記憶通りの大注連縄があった。
神社の方に聞くと、
「御仮殿から移るとき神さまの頭が引っかかるといけないので小さいのをかけている」
とのこと。さすが芸がこまかい。翌日の映像をみたら、また大きいものに変えられていた。

町の各所で「雲太、和二、京三」という文字を見た。出雲太郎、すなわち出雲が一番という言葉を縮めたのだ。平安時代の建築物のビッグ三を順にならべたもので、出雲太郎が一番、二番は大和の大仏、三番は京の大極殿の順だった。大仏殿は四五メートルあるから、雲太はそれ以上で、四八メートルはあったと言われていた。今の社殿の高さは二四・四メートルだから、四八メートルというのはいまの倍の高さ。
「そりゃ、いくらなんでも大きすぎるよ」
と誰もが思ったが、平成一二年に境内から三本の柱を金輪で束ねた柱の根本が発掘された。これは、大社の宮司で出雲国造の千家(せんげ)家に伝わる図面にある古代神殿の配置図の場所だ。この太さがあれば四八メートルの建物を建てることは可能だと、大林組の技術者がシミュレーションした。言い伝えはウソではなかった。
スサノオが大国主に「はなむけ」として贈った言葉、
「高天原に届くほどの高い宮殿を建てて住むのだ!」
ちゃんと実現していたのだ。

■3-7 大国主神は天照大神に国を譲る

天照大神は大国主神の豊葦原瑞穂国が大いに栄えているのを見て、あそこは元スサノオの国だから天津神によって取り戻そうと考えて、使者を送った。
しかし最初の使者である天之菩比(アメノホヒ)命は大国主神の魅力にひかれて「国津神」になってしまう。そんな繰り返しが何回かあったが、高天原勢は最後に武御雷(たけみかずち)というとてつもなく武力のある神を派遣して強引に交渉をした。
大国主神は息子の事代主神に相談する。
「いいですよ!」
と言って船をひっくり返して消えてしまう。
もう一人の息子であるタケミナカタは武力で挑んだが簡単に負けて母親のいる越の国のヌナカワ姫のもとに逃げこむ。さらに追われて姫川をさかのぼり諏訪の地に逃げ込んだ。そこで隠居するので赦してもらうことになった。
息子たちが敗北したので、大国主神は天にも届く巨大な宮殿に蟄居することにして、出雲の国は天照大神に譲ることにした。

出雲大社の中を見ることはできないが、聞くところによると真ん中に大国主神、両脇にはスセリ姫と宗像の女神であるタギツ姫が同居しているそうだ。

最後の抗争で、大国主神は豊葦原瑞穂の国を高天原勢力に明け渡すことにしたが、高天原の事情で天照大神の勢力は出雲に降臨してこなかった。
その間に仲間の大物主神は石見から大和に勢力を広げ、石上神社付近に本拠を構えた。た。長男の事代主神は葛城で地元勢力と婚姻関係を結び、一言主神として知られるようになり、羽振りもよくなった。諏訪には次男のタケミナカタが物部守屋と組んで勢力を拡大していた。天照大神の息子が降臨してこないうちに全国各地に大国主神勢力は広がっていった。

出雲での抗争は大国主神の「国譲り」で決着を見た。もと天津神のスサノオ神が作った出雲なのだから姉の天照大神(天津神の総帥)が取り戻すのは当然という論理だろう。平和裏に国が譲られたと古事記には述べられているが、当然激しい抗争があった結果だろう。

私は出雲大社の遷宮の次の日にバスで日御碕から日御碕神社に行った。
この神社は出雲で唯一、天照大神を祀っている。赤い社殿は出雲のどの神社とも違う。しかしこの神社の上の高台からはスサノオ神社が見下ろしている。
これが何を意味するのかはよくわからないが、私は天照大神、スサノオ神の姉弟が、大国主神から出雲を取り戻し、高天原での失礼をわびて、仲直りしている姿かと思っている。

日御碕は日没がすばらしい場所である。
「そうか、スサノオと天照の弟妹は、日が没するのを見ているのだ!」
自分の思いに酔っていたが、五木寛之の「下山の思想」を読むと
「朝日に柏手を打つのが神道で、西に沈む夕日に合掌するのが仏教である」
とあった。あれれ!出雲大社は神道の本家、私の思いは間違っていたようだ。

なにわともあれ、大国主神は豊葦原瑞穂の国である出雲を、天津神の天照大神に「国譲り」した。しかし天津神は出雲には降臨せず、九州高千穂に降臨する。なぜ九州にという疑問は残るが、どこにもその理由は述べられていない。

第4章では、九州の高千穂に行ってその理由を確かめてみたい。神さまを追いかける旅はお金がかかる。財務省の奥様にお願いしなければ次には行けない。いつの世も、天照大神と同様に主導権は女性にある。とりあえず第3章「出雲での抗争劇」はこれにて終了。

■3-8 資金提唱者にわかりやすいように!

第3章まで終えたつもりだったが、資金援助の奥様から「よくわからん!」と言われたので、追加で図示してみます。これでわからなかったら、次回の資金が出ません。 大丈夫かな? まずこの辺りの旧国と出雲の関係図です。黄泉津比良坂の位置が微妙です。黄泉津比良坂を西に向けて越えると、そこは「根の国」です。

第3章で、古代におこった大きな抗争を神話にしたものについて述べた。すべては高天原で行われた姉の天照大神と弟のスサノオ神の争いから始まり、最後には天照大神が取り返して争いが終わった。

最初のあらそい! 「うけひ」の審判を受けたが、判定基準を定めていなかったのでスサノオは勝手に勝利宣言した。姉の天照大神は表舞台から去り、岩戸の奥に隠れてしまった。スサノオ神の勝ち!

戦いに勝ったがスサノオは、しかし高天原を追放されて出雲に降りてきた。そこで八岐大蛇族を退治しスセリ姫を嫁にして出雲の盟主になった。 スサノオの勝ち!
因幡の国では大穴牟遅神がやってきて白兎を助け、ヤガミ姫を妻にしたのだが、兄神たちは嫉妬で大穴牟遅神をめちゃくちゃにいじめ、黄泉の国に送り込む。すなわち殺してしまった。大穴牟遅神の負け!

第4は黄泉の国(根の国)で大穴牟遅はスセリ姫の助けを得てスサノオ神をやっつける。スサノオ神から「大国主神と名乗れ!」と言われ出雲の国の盟主となる。 大穴牟遅神はスサノオ神に勝って大国主神となった。大国主神の勝ち!
幸せに暮らしていた大国主神のところに天照の使者が来るが、大国主の子分になってしまう。一番強い武御雷神が武力で出雲を奪還する。奪還というのはもともと天照大神の弟のスサノオの国だったので、取り返すのは当然のことという論理だった。最後に天照大神が勝った!

第2章 天の浮橋から高天原へ

三輪山の麓、崇神天皇の宮殿に大国主神と天照大神とが一緒に祀られていた。巫女の宣託によってパンデミックを起こした疫病の原因は二柱の神を同じ場所に祀ったからだと分かった。二神を引き離したことでパンデミックも収まった。大国主神と天照大神は相いれない神だったのだ。
大国主神は出雲大社の神、天照大神は伊勢神宮の神である。2013年は両方の神社の遷宮が行われた。この年5月に出雲大社の60年遷宮に行き、10月の伊勢神宮の20年遷宮に行く計画を立てた。

出雲に行く前に古事記を読んで事前学習をした。もちろん原文を読めるような教養はないので梅原猛著の「古事記」を頼った。
出雲における神さまの最大の事件は「国譲り」である。国譲り事件の主人公(神)は天照大神と大国主神である。大国主神が支配していた出雲の国を天照大神が自分に譲るように迫るのである。大国主神は「巨大な宮殿を作ってくれれば国を譲る」
と言って、そこ(古代の出雲大社)に隠遁する。

今の価値観から見れば天照大神は理不尽と思うが、それなりに理屈はあった。それは後の章で述べるが、ともかく大国主神は天照大神の言う通りに国を譲る。しかし天照大神の息子はなかなか出雲にはやってこない。
「出雲は騒がしいい、私は行きたくないが、息子が生まれたので成長したら彼を降臨させます」
と言い出した。
天照大神はしかたなく孫を降臨(天孫降臨)させることにした。しかし時間がたったので出雲は他の勢力に支配されており、行先を筑紫の日向の高千穂に変更した。先導するのは三輪山で神楽を舞った天の鈿女(ウズメ)である。

西洋の全知全能の神さまと違って、日本の神さまはしばしば悩み苦しむ。三輪山で見たように、神さまが玄賓僧都のところに悩みの相談に行ったりする。まるでそこらの人間と同じような行動をとる。絶対的な神よりも悩み迷う神さまのほうが私は好みである。

天孫降臨は天から神さまが降りてくるイメージだがここでいう天は天照大神のことで空のことではない。天照大神がおられる場所は「高天原」である。「天」という漠然としたものではなく具体的な場所と考える人は多い。江戸時代の大学者である新井白石は
「高天原とは常陸国(茨城県)多賀郡である」
としている。根拠は「たか」という読みを漢字の多賀にあてただけだ。他にも「高天原」の候補地はいくつもあった。
しかし古事記を研究した本居宣長は次のように考えた。
「高天原 は、すなはち天なり、天は、天神の坐ます御国」
高天原を探すことなど「不遜」なこととされるようになった。

でも第2章では、しばらく不遜なことをしてみたい。