三重県の四日市からわずか5.7㎞の鉄道がある。「四日市あすなろう鉄道」と呼ばれる。線路の幅は762mm の軽便鉄道規格で、JR線の1067mmの狭軌規格よりもかなり狭い。元は近鉄の路線だったが、2015年から公有民営会社となり営業が開始された。 続きを読む
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島田から大井川、金谷から小夜の中山!
昨日の続き
島田駅から旧東海道を歩き、川会所に向かう。昔大井川の私があった場所だ。弥次喜多の旅でも、大井川の渡しは難所だったようだ。橋を架けたり舟渡をすることもできたはずだ。しかし、幕府はここで参勤交代の大名たちからたくさんの通行税をとったり、宿場町の繁栄のために、わざと橋は架けなかった。島田や対岸の金谷の町は、川渡しを待つ人々で大いに繁栄した。
川会所を見学して、土手に上がり大井川をわたる。こりゃ大河だ。ふだんは水は少ないというが、本日は雨でかなりの水量だ。川止めだろうな。現在の橋は歩道はついているがかなり古い。
橋を渡って金谷に向かうと途中で大井川鉄道の駅を通った。ここはSLで有名な鉄道だ。ちょうどSLが蒸気を噴き上げ動き出したところ。こっちへ来ると思い、カメラを構えたら遠ざかっていった。焦ったのでピントはあまい。
JR金谷駅をガードをくぐり急坂を上がっていくと金谷の石畳が出てきた。昔東海道を走って東京に向かっていた時に、足が痛くて下向きに歩けず、後ろ向きで下った記憶に残る道だ。無人販売所でイチジクを4個100円で買う。これを食べて元気を出して登る。途中に「すべらず地蔵」があるが受験生にあやかろうというものか?
石はまるく磨かれているので、雨の中滑ること。こんなところで足をくじいたら大変。慎重に上る。登ったところに諏訪城あとがある。ちょっと寄ってみる。深い堀を巡らせたいい城だ。入口にコーヒー屋さんがある。いい匂いだが寄らないで先を急いだ。コーヒー屋さん先から菊川への下り坂になる。ここも滑りそうで気が抜けない。長い下りをおりて菊川の集落に入る。菊川の駅からははるかに遠い。
ほんの少しですぐに小夜の中山の急坂にかかる。舗装路だが、これで車が登れるの?というほど急坂だ。島田から大井川を渡り金谷の石畳の急坂を上り、菊川坂を下り、再びのぼり。石畳道よりもはるかに急だ1時間かかってやっと頂上の台地へ。100歳の飴売りのおばちゃんがいた子育て飴屋はもう店じまい。
小夜の中山 というのは箱根よりも難所だったというが、たしかに。山の高さはないが、こちらの方が山が深い。迷い込んだらもうどうしようもない。小夜の中山の夜泣き石は有名だ。そんな怖い話を見聞きする余裕もない。久延寺の境内の夜泣き石を見る気もしない。そんな寂しい場所に若い親子、少しだけお話をする。
疲れ切って一里塚、白山神社とこえる。地図を見ると日坂の宿まではるかに遠い。まだ2時半なのでゆっくり歩くが、しばらくすると大雨警報通り、空が真っ暗になってきた。広い茶畑の尾根道を歩くのは雷が怖い。急いで国道1号へ降りる道をいく。急坂を転がるように行き、国道の下で雨宿りしていると、先ほどの親子が車を止めてくれる。事任八幡宮まで載せてもらい、バスを待つ。
ここはバスは少ない。ヒッチハイクを試みるがおじいさんじゃ停まってくれるくれる車もない。雨宿りして着替えをして1時間半後のバスに乗った。掛川までは200円歩いても1時間だよと言われたが、もうそんな気力はなかった。ビールを飲むと目が回りそうだったので、お弁当だけにして「こだま」に乗った。8時前には家に着いた。
雨がひどい! でも宇津の谷峠
大雨の警報、今日は丸子の宿から宇津の谷峠を越える予定だったが、無理なので、鈍行で戻ります。残念。
・・・・と朝方に書いてホテルを出たが、静岡駅で朝茶漬けを食べているうちに雨は止んだ。まだ8時なので、バスで鞠子の宿のとろろ汁の丁子屋まで行って様子を見ることにした。丁子屋はまだ雨戸をはずし始めたところ。裏手(国道側)に回ると大きな駐車場もあり多くのお客が来ることが分かる。
私が東海道を歩き始めたことにはまだまだお客は少なかったのに。藁ぶきの外観は、広重のころと変わっていない。
「梅若菜まりこの宿のとろろ汁」 芭蕉
静岡駅で「まるこ」ちゃんがお出迎えしてくれたが、その名前は丸子宿からとったものかなと、想像する。まだ早いのでとろろ汁を食べることはかなわなかった。雨はほんの小雨に代わったので、宇津の谷峠へ向かう。
伊勢物語に
「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦楓は茂り、もの心ぼそく・・・・」
とある。
いまは国道に轟音を立ててトラックが通り過ぎるが昔は心細い道だった。その蔦の細道は、国道トンネルの左側を上がっていく。私は宇津の谷の集落を見たかったので右手に曲がって舗装路を上がっていった。
峠下には宇津の谷の集落がなかなかみごろ。羽織やという屋号の店はまだ残っている。左の写真はトンネルに上がる道から見下ろしたもの。
峠を越え道のあと、明治、大正の時代に入るとトンネルが掘られた。急坂を上るので大変だったろう。これまではいつも峠越えだったが、本日は雨も降っているので明治のトンネルを通ってみた。電気もついており快適。
下って国道の下を抜けて岡部の宿につく。汗と雨でぐっしょりになった。一応着替えてバスに乗り藤枝に。このバスは本数が多い。藤枝から島田までJR線一駅のる。
お昼を食べて、大井川に向かった。後半は14日分に入れます;
千本松原左富士
東海道第2弾
新幹線で三島に、そこから片浜まで行き、千本松原を歩きました。手入れはしているのですが、松枯れが目だちます。原宿の松陰寺、地元では白隠さんの鉢かづきの松も枯れていた。おばちゃんの話では、住宅が建ちすぎたからだ、とのこと。二代目の松もてっぺんに鉢が被せてあった。見えるかな?
原駅を過ぎてしばらく行くとチモトコーヒーの工場があった。チモトは千本のことだ。知らなかった。松原の海側には高い防波堤が延々と伸びている。波よけは必要だが、松枯れなどデメリットもある。松の代わりの木を植えるのも仕方がないかな。
左の写真は千本松原と防波堤。富士の方向を見ています。円と続く防波堤とその背後の松原です。昔ここを田口さんの一緒に走ったことがあります。途中で倒れている人がいたとき、田口さんがリュックから氷砂糖をだして食べさせたと回復。「低血糖だよ。サハラマラソンの時にも助けたよ」という。偉い人だと感心したことを思い出した。
吉原駅の近くに吉原宿場があったが、津波か洪水で内陸に移動した。新しい吉原宿は岳南鉄道の吉原本町にある。そこに行く途中、東海道で2番目の左富士がある。地名だけでなく左富士神社もある。広重の浮世絵にある通り、昔から名所だった。もし晴れていたら、右写真のように見えるはずだが。
箱根甘酒茶屋から三島大社へ
東海道旅再開、元箱根からバスで甘酒茶屋に降りる。本当は湯本の三枚橋から畑宿を通って上がってくるのだが、今回は甘酒を飲むためだけに下がった。畑宿から箱根関所までの中間に茶屋が何軒もあったそうだが、周りには人家はない。現在はここ一軒だけだが、けっこう繁盛している。昔の風情が残っているからかもしれない。ほんのちょっとだけ昔の東海道を歩く。箱根の石畳は往来が激しかったせいで石は丸みを帯びているので滑りやすく歩きにくい。
再び箱根町にもどり駅伝博物館を見てバスで三島に降りる。この道も何回も通った道だ。今回箱根フリー切符を買ったので何回でもバスの乗り降りができる。海賊船も乗れる。三島へ下る国道はものすごいヘアピンカーブが続くが石畳道はほぼまっすぐなので距離は短い。途中山中城がある。けっこういいお城跡なのだが、見物人はいない。しばらく下がると大吊橋という名所がある。最近できたものらしいが観光バス送る人気スポットらしい。日本一のつり橋。三島や沼津の町、さらに海が見える絶景が楽しめる、らしい。
三島大社の前は何回も通ったが、中に入るのは初めて。立派な社だ。大社というのは官幣大社から来たもので、出雲大社とは直接関係ないかな? でも祭神は大山祇の神と事代主神だ。事代主命は大国主命の子どもだから出雲大社との関係はあるかな。本殿は流造だが、千木と鰹木はまさに出雲大社と同じで天を衝く格好だ。なかなか素晴らしい神社だった。お参りできたことありがたく感じて再び箱根に戻り、湯本まで降りて小田急で東京へ。
箱根ポーラ美術館
富士屋ホテルに泊まって仙石原にあるポーラ美術館に行った。ユリ子さんのお姉さんに招待券をいただいたので、今回の豪華旅行を計画したのだ。箱根にポーラ美術館があることは知らなかった。まだ新しいガラス張りの美術館。ポーラ化粧品の社長かな?のコレクションというが、それはすごい。たぶん箱根で一番素晴らしい美術館だろうとわが奥さまは言う。
9月の4日まで「Modern Beauty」という展示で、フランスの絵画、当時のファッション、化粧品会社だけあって当時の化粧品、香水、化粧風景もなど盛りだくさんの内容だった。絵画はマネの「ベンチにて」、モネの「睡蓮」、ルノアールの「レース帽子の少女」など見たことのある超有名なものばかり。まったく芸術無知の私でも少々驚いた。みんなに薦めたいが9月4日まで!
ここのレストランがまた素晴らしい。ゆっくり芸術鑑賞! の半日でした。
シンガポールから帰りました
U.S.S. ユニバーサルスタジオ
シンガポールにはディズニーランドはないが、ユニバーサルスタジオはある。シンガポールの南端の先にあるセントーサという島に新しく作られた。、私にはわからないのだが、子どもたちの話では日本のディズニーランドよりも小さく、半日あれば十分まわれるよとのこと。実際に待ち時間はなく乗り物にも乗れた。なかなかよくできた遊園地だが、それに伴って周辺に大きなモールやレストランが並んでおり、一大繁華街が形成されているのには感心した。セントーサ島全体が巨大遊園地になっている感じ。私たちはタクシーで行ったが、モノレールもあり展望ロープウエーもセントーサ島に乗り入れている。 続きを読む
植物園、日本を振り返る!
孫に連れられてホテルの近くの植物園に歩いて行った。ボタニックガーデンと呼ばれるが、都心から歩いていける場所に広大な植物園があり、無料で入ることができる。大勢のランナーが走っている。私も走りたいのだが、この暑さと湿気ではちょっと勘弁してほしい。
しかしランはこの気候に合った植物らしい。街の街路樹にもランの花が寄生している。昔エクアドルに行ったことがある。シンガポールと同じ赤道直下で海岸に近い湿った気候だった。そこでは電線にまでランが寄生していた。空気中の湿気で根っこが育つそうで、土は必要ないとのことだった。シンガポールでは電線にくっついたランは見なかったが、樹木にはびっしりとついていた。 続きを読む
シンガポール在住のI君、S君たちと会う
孫たちに遊んでもらうことも楽しみだったが、ここに在住の友人たちに会うのも今回の旅行の目的だった。2日目には山岳部の後輩のI君一家と会うことができた。お子さんがわが孫と同じ年なのでいろいろ話しできたらいいなと思っていた。
翌日は清瀬高校の教え子のS君が、在住の同窓生を集めてくれた。その中には戸山高校、竹早高校の教え子がいたのには驚いた。戸山の卒業生はバンコック在住なのにわざわざ飛んできてくれた。ありがたいことだ。
彼らからいろいろ学んだことと、国立博物館で知ったことと合わせて、シンガポールの歴史をちょいと記しておく。半分ぼけた頭だが、酒飲んで楽しい話は覚えている。しかしちょっと難しいことはすぐにメモしておかないと忘れてしまう。 続きを読む
シンガポール1日目
孫たちに誘われて、海外旅行することになった。奥様は日本の暑さでも大変なのに、それ以上暑い熱帯ではとても体力が持たないとのことで今回はお留守番。
シンガポールは1965年の独立の5年後にボルネオ島のキナバル山に登った時に立ち寄って以来だ。あのときはまだ田舎の町だったが今は世界で最も進んだ街になっているとか。教育水準も平均寿命も日本を追い越しているという。どうしてそんなになったのだろうか興味のあるところだ。 続きを読む
8月20日 玉原高原でぶらりバー
いよいよ夏になってきました。暑い日が続くと涼しいところへ行きたくなります。暑いので8月のぶらりバーはお休みと言いましたが、番外編として涼しい高原でおいしい水を飲むという企画をしました。行先は玉原高原の高層湿原とブナの林、そしてブナの湧水です。上越線の沼田が、それが終わる8月15日までしかバス便はありません。土日は朝9時20分だったかに沼田発の便が1本だけあります。私はそれにのろうと思っています。詳細は ぶらりバーのブログ に入れてありますから見てください。参加の方はコメント欄に入れるかメールをいただければと思っています。
私は6日から12日までシンガポールに行きます。赤道直下なので暑そうですが、今は太陽が北半球にあるので、一番涼しい時期だそうですが??? 大学、高校の卒業生が集まってくれるそうです。あの伊勢志摩サミットでお土産に配られたアーティストブックを披露しようと思っています。なんと、かのシャングリラホテルに泊まります。今回奥さんは諸事情があって留守番です。
スムーズレンタカー
スムーズレンタカー:我が家の車庫は花壇に代わった。でも時々車が必要なことがある。旅先では事前に予約をしてトヨタレンタカーなどを利用していたが、都内ではこれまで利用したことがなかった。先日ホンダのスムーズレンタカーという方法を教えてもらった。さっそく本日利用してみた。投票は期日前にすませているので、政治について文句を言う資格は確保してある。テレビなど見ていると分かったような解説をされるのが腹立たしいので、電波の届かないところに避難した。
スムーズレンタの利用方法:事前にパソコンから登録する。必要なものは
1.メールアドレス、
2.免許証裏表の写真(Jpeg)、
3.VISAカードなど、
■ 指示に従って入力すると、2,3日後に登録完了の返信メールが来る。その結果を待って予約申し込み。完了するとメールで返信が来る。
本日は朝5時から12時間FITハイブリッドを借りた。朝早いのでだれも来ていない時間だが、
1.免許証を車の所定の場所にかざすと、ドアのロックが外れる。
2.キーボックスにキーが入っているので、取り出し、
3.ETCカードをセットする。目が悪いのでちょっと苦労する。
4.あとは普通の運転。まえに使っていた車と、年式も一緒だったので、使い勝手はいい。クルーズコントロール(速度一定にできるアクセルはなす)があるので長距離高速運転は大変楽だ。
■ 返還方法:朝出た場所に時間内に戻ってくればオーケー。
▽ガソリンは距離計算なので満タン給油の必要なし。これはいい。荷物を残したままロックすると、次の人が来るまで待っていなければならない。しっかりと見回る。特にETCは確実に取り出しておかないと、次の人にいいように利用される。
▽確認してキーボックスにもどして車外に出る。免許証を朝かざした場所にもう一度あてるとドアはロックする。これでおしまい。
■ しばらくするとスマホに料金、ガソリン代の合計金額が出る。本日は4990円基本料金 3500円ガソリン代 という明細。これはVISAカードから差し引かれるので本日は交通費の支払いはなし。必要なのはお昼のご飯代。財布からの出費がなかったので、豪華ランチ1250円(下の写真)。お土産に野菜をたくさんいただいたので、差し引きプラスになった感じだが、あとあとになってカードから引き落とされる。
時間貸しの駐車場にあるレンタカーも同じシステムなのかな? ともかくこれはいいシステムだ。旅先でレンタカーを借りるときには自分の証明書が何種類か必要、帰るときにガソリン満タンもありけっこう面倒くさい。このシステムは慣れれば大変いい。マンション住まいで車庫を借りている人にとっては朗報かもしれない。・・・とっくに利用しているよ! 遅れているなあ!(実は数々の意見、でも年寄りにはけっこうハードルは高い)
お花畑 湯沢高原絵日記
若狭で考えた! 神功皇后
我らの親の時代「三韓征伐」をした「神功皇后」は日本の英雄だった。明治初期、すべてのお札の肖像画は神功皇后だった。日本の朝鮮支配の根拠は神功皇后の業績にあった。明治以前、彼女は初代女王卑弥呼であるとも信じられていた。武運の神である八幡神(第15代応神天皇)の母親であることから武士や軍隊からも支持され、第2次大戦前まではスーパーヒロインであった。
しかし第2次大戦後、歴史書とされていた古事記・日本書紀は抹殺され神功皇后も卑弥呼も教科書から消えていった。朝鮮の歴史に朝鮮全土を古代日本が征服したという記録もない。子どもは15か月もお腹の中にいたとか、夫の仲哀天皇を殺してしまったとか疑惑が多く出て、実在人物ではないとされてしまった。今は年配の人に聞いても「だれ?その人?」という感じだ。でも私は神功皇后=卑弥呼という日本書紀の記述がどうにも気になる。
話を古事記に戻す。
ヤマトタケルの次男、仲哀天皇(第14代)は北九州の香椎宮にいた。なぜ天皇自らがここにいたのか不思議だ。神功皇后が神がかりになって天皇に「朝鮮を征服するように!」と伝えた。しかし仲哀天皇は無視して琴を弾いた。お付きの武内宿禰が天皇の様子を見に行くと、琴が鳴りやみ、天皇は亡くなっていた。神功皇后は自らが武装して朝鮮に向かう。住吉のかみさまは魚に命じて皇后の舟を一気に朝鮮に運ばせた。さらに波は内陸まで侵入した。驚いた新羅の王は日本に従うことを了承し、百済も高句麗もみなそれに倣った。これが三韓征伐である。
三韓を支配下におさめた神功皇后は、臨月のお腹に石を巻いて、生まれるのを遅らせ、凱旋後の北九州の宇美で子どもを産む。この子がのちの応神天皇である。普通に考えたら、朝鮮遠征中に授かった子どもだろうが、それじゃ我が子を天皇にする根拠がなくなる。きっと遠征前に授かったよう帳尻り合わせをしたのだろう。私はどうも武内宿禰という腹心の部下が怪しいと考えるが、それはゲスのかんぐりというものだ。
さて神功皇后は留守にしていた大和へ帰還することになったが、そこでは天皇のいないのに乗じて権力争いが起こっていた。皇后は一計を案じて「子どもは亡くなったので棺を持って帰る」と宣言して、瀬戸内海を渡って浪速に向かった。待ち伏せをしていた忍熊王との間で激しい攻防が行われた。皇后軍の将軍、武内宿根は相手を琵琶湖まで追いやる。忍熊王は湖に身を投げた。
神功皇后は大和に入って天皇家の政権を復活する。この時に天皇、当時としては大王になったとする説があるが、詳しくはどこにも記していない。武内宿禰は、亡くなったとされる御子をつれて若狭へ行き、仮宮殿をたてる。そこに気比神社の神が出てきて、名前を変えようという。
もしかすると本当に亡くなり、棺だけだったのではないか。だからどうしても代理人が必要だった。その代理人の名前は「イザサ和気大神」で、気比神社の神さまと交換したことにしたのだろう。もとの御子の名前がどこにもないのは、もともといなかったからではないか??
気比神社での名前の交換! なんの意味か分からなかったが、なんとかつじつまの合う話になってきた。旅の途中、時々立ち止まって考えてみる…現地集中思考は大事だ。これからは少しゆっくり休み休み歩いてみよう。