越中国 惣社 一宮 国府 国分寺

越中国分寺

高岡の駅からJR氷見線の越中国分駅へ行き、そこから一宮の気多神社に向かった。その参道への道に国分寺の跡の案内板があった。

参道はもう市街地になっており国分寺の寺域もまったくわからない。小さな寺があるのと看板があるだけである。七重の塔の位置など全くわからない。下の写真は国分寺跡から市街地を見た写真。国分尼寺の跡の案内はどこにもない。

越中総社 一宮の気多神社
気多神社お参りに行ったところ、境内に「総社」の文字があった。総社と一宮神社が一緒ということは普通はないので、ここは元総社だったのだと納得する。他に一宮があったはずだと調べてみると射水神社が一宮であることが分かった。実は越中では全部で4社が一宮を名乗っている。それぞれに根拠はあるのだろうが、私は時代によって移動したと考えることにした。ともかく気多神社の中に総社があった。総社は国府のすぐそばにある。国府はどこに?

越中国府 

古代の国府は「総社」の近くにあるはずである。JR伏木駅の周辺には「国府」という地名がある。勝興寺、気象資料館に国府があったとされているようだ。気象資料館には行っていないけど、市のHPからの写真借用。勝興寺の門と本堂の写真はまたもや賀曽利さんから借用。

国守 大供家持
この国府の国守は万葉の歌人、編纂者である大伴家持だった。彼は国守としてここに5年間過ごしたという。高岡の各地に大伴家持顕彰碑がたてられている。もう少し勉強しておくべきだった。この写真も借り物!

上総 国分寺 国分尼寺 惣社

上総国府

上総国は律令時代には最重要国だった。旧国は大中小に分けられており、大国は全国に13国あった。その中でも上総、常陸、上野の3国は天皇の子が太守になる親王任国だ。天皇の子は現地には来ないので、これら3国は「介」が最高位だった。菅原孝標は道真の子孫で上総介を務めた。「更級日記」は孝標の任期が終わりその娘が上総から京へ戻るときに書いた日記である。‥・と聞いただけで読んだことはない。
その大国である上総国の国府はまだ候補地だけで確認されていないが市原にあるとされている。しかしその場所は郡本(こおりもと)か惣社か?候補地はあるが発掘はされていない。私は惣社に近い上総村上駅から惣社戸隠神社の間あたりかと思っている。その理由は上総村上駅から歩き始めたという理由だけ。

惣社 戸隠神社

村上駅からまっすぐに歩くと森が見えてくる。本郷坂という上り坂の右手に石段がありその上に立派な神社がある。私の好きな狛犬も新旧二体が並んでいる。さらに浅間神社の富士塚がある。富士山の溶岩積みのいいお富士さんだ。目の下の眺めは良い。この高台に国府があったような気がするのだが??

国府 惣社

国府巡りの先達、賀曽利さんから国府の場所と、もう一つの惣社について写真を提供してもらいました。阿波須神社は国府があった場所?だそうだ。もう一つの総社は飯香岡八幡宮でこちらにも立派な富士塚がある。

国分寺

現在の国分寺はなかなか味わいのある寺だ。こんないい薬師堂は見たことがない。手入れは大変だろうが維持して欲しい。茅葺の薬師堂の裏手に国分寺跡が残る。立派な七重の塔があったらしい。背後に見える市民センターのビルよりも高かったのだろう。珍しく塔の跡にたたずんで休憩。いつも歩き続けているのでほとんど休憩なし。余韻のない旅だなあ。

国分尼寺

国分尼寺の入り口に展示館が作られている。昔この辺りは古墳巡りで何回も来たことがあったが、国分尼寺がこんなに立派に復元されていることは知らなかった。金堂の回廊も復元されている。上総国は大国だったのだろう。

 

国分尼寺のジオラマ、窓の外に復元回廊が見える。

阿波国 国府 国分寺 総社

前回房総の安房国国府のあたりを歩いた。安房国は四国の阿波国から移住した忌部一族が経営したと言われている。その大本の阿波国について記しておく。
2015年4月に四国遍路の途中で少しだけ寄り道をした。その時には国府、国分尼寺については意識していなかったので、HPなどを見て国府、国分寺、尼寺、総社などの関係を調べてみた。
JR徳島線に「府中」駅がある。この周辺には国府町、府中の地名がある。しかし国府の遺構などは発見されていない。この地図の北側を吉野川が流れている。

府中 国府

賀曽利さんから写真を借用、府中駅とかいて「こう」駅と読む。

国分寺

現在の国分寺は四国15番札所として巡礼者が多く訪れる大きな寺である。聖武天皇の詔によってつくられた阿波国分寺の寺域の一部を利用している。寺域は相当の広さがあったようだ。現在この説明板は新しくなっている。

国分尼寺

巡礼路から少し外れているが寄ってみた。川に挟まれた低地にある国分寺よりも山側にある。現在国分尼寺の方が発掘がすすみ整備がなされてれている。実は写真がない、賀曽利さん持っていたら、貸してください。

総社1 八幡総社神社

第16番観音寺の境内に神社があり、それが阿波国総社と言われている。

総社 大御和神社(三輪神社)
第16番から少し行ったところにある。こちらは大御和(おおみわ)神社、大和の大神神社から勧請したものだという。私としてはこちらの方に親しみがあるのだが・・・

古い写真を探し、記憶をたどって写真を並べた。国分尼寺には行ったのだが、当時は関心が薄く、いい写真が全くない。旅行社のHPを一時借用した。近々写真を入れ替えます。

安房国の国府、国分寺、総社

安房の国のルーツは四国阿波である。麻を栽培していた阿波の忌部氏は黒潮に乗って房総半島南端の布良(めら)の浜に上陸し開拓を進めた。この地を安房国とした。安房の一宮は布良の近くにあるが、国府は内房の館山にあったらしい。国衙は発見されていないが総社と国分寺は見つかっている。

館山
私の最も尊敬する環境学者の山岡さんの転居先は城山の下にあった。晩年は山岡蟻人の名で俳人としても著作をものした。しばしば訪れていたので館山の地は懐かしい。今回もまず城山下の博物館によって資料収集をして国分寺に向かった。今回は東京駅から高速バスで海を渡ってやってきた。

安房国 国分寺
館山駅から128号線を3キロほど行った道路わきに国分寺がある。裏手には内房線の線路がある。この地域は国分と呼ばれ隣に諏訪社がある。国分尼寺は推定場所もわからない。南房総市にあまんぼう(尼坊)という地名があるそうだが、今回は場所を特定することはできなかった。歩き聞きまわったが手掛かりはなし。残念!

安房国総社 鶴谷八幡宮                                                                                             国分寺はちょっとした高台にある。萱野地区から下を見ると広い草原が見える。国分寺ができたころは入江だったがその後地震で隆起し陸地になったが長い間は湿地帯だったのだろう。現在バイパスができておりそこをめざして歩いていく。鶴谷八幡宮は昔の砂丘の上に作られた大きな社である。入り口の大鳥居の脇に「安房国総社」と書いてある。境内には安房国一宮の安房神社の遥拝所がある。こんな立派な遥拝社は始めて見た。安房神社は天津系、ここは八幡さま。天津系の方がちょっと格上なのかもしれない。

賀曽利さんの知見
今回の投稿を見て直ちに賀曽利さんから、南房総市の府中に行かなかったの?? とのメールをもらいました。賀曽利さんはバイク、私はトボトボ。回れる範囲が各段に違います。途中までは行ったんだけど! 安房国府、安房国分尼寺、安房元総社と言われる場所の地図と賀曽利さんの写真を追加しておきます。私の歩いたコースも!

相模国分寺:国府 総社


今回の散歩は相模の国、今の神奈川県あたり。国府は平塚から大磯に移ったことはわかっているがその位置はまだ特定できていない。我が理論は「国府と国分寺は一体」だが、ここではまったく崩れている。相模一宮「寒川神社」は前に海老名の国分寺から目久尻川に沿って走って行ったことがある。距離は約7キロだが水運があるので一宮と国分寺はかなり近い位置にあったことになる。

池袋の駅に着いたらちょうど相鉄線直通海老名行の電車が入ってきた。湘南ライナーで大磯の国府本郷から今日の散歩を始めるつもりだったが直ちに変更。初めての路線に乗ることにした。羽沢横浜国大駅が目玉らしいが地下鉄のようで面白くなかった。でも新しい路線に乗れたのでとりあえず満足。海老名駅は来るたびに変化している。大発展中の上海の街のよう。外観はすごいが中身が伴っていない街にはならないで欲しい。下の写真は現在の国分寺から眼下の街を見る。

海老名の国分寺・国分尼寺

国国分寺の前に温故館があり、国分寺の資料を展示している。明治初年、中山毎吉つねきち)は小学校の先生をしながら国分寺の調査に奔走し、校長をしていた小学校敷地に資料館を建てた。それを引き継いだのが現在の温故館である。中山の功績なしには相模の国分寺が日の目を見ることはなかったろう。

国分尼寺は国分寺から500m北あるが逆川運河で国分寺と繋がっていた。しかし中山の提言がなかなか取り入れらず史跡の認定が遅れてしまい、元の寺域は民家に侵食されてしまった。

国府、総社 大住郡=平塚市四宮

国府は最初は大住郡(平塚市)にあったらしい。国分寺は国府エリアではなかった。ということを私はあまり信じられないのだが。平塚市の四宮という場所、国道29号線と交差する県道44号の新しい道路わきから国府の遺跡が発見された。大念寺脇の国衙の遺構はまだ未発見だが、この辺にあったことが分かっている。総社は前鳥(さきとり)神社だろうと言われている。前鳥神社に行ってみると、由緒書きには「国府はここから餘綾(ヨロギ)郡(大磯町)に移った」と書いてある。国府というのはけっこう時代によって動くことがあったらしい。それなら海老名にあったかもしれないと思うのだが、海老名にはその気配はないそうだ。

国府(国府本郷)総社  餘綾(ヨロギ)郡=大磯町
相模の国府は平塚の前鳥(さきとり)神社付近から大磯の国府本郷に移った。平塚には国府、国分などの地名はないが大磯には国府の地名がある。その地に神事が行われる場所がある。しかし国府の遺構などは出ていない。国府祭を行うのは神揃山(かみそろいやま)であるが、今の時期に行ってもその場所を探すのは難しい。神揃山の祭りを司っていたのは大磯の隣の二宮町の相模二宮、川匂(かわわ)神社であることがわかっている。国府と総社、一宮、二宮の関係はどうなっていたのか、ちょっと興味がわく。ちなみに神揃山と言っても馬場公園から10分ほどで登れる場所である。

国府小学校の少し海岸寄りに六所神社がある。これが相模国の総社だとされている。参道は東海道線分断されているが、立派な神社である。お隣の二宮の川匂神社との関係はどうなんだろう。

武蔵国府・国分寺


武蔵国の一宮はさいたま市大宮の氷川神社であるが武蔵国府からは非常に離れている。国府と一宮が離れている場合は国府近くの「総社」が立派であるという我が「法則」の例がこの武蔵国でも成り立つ。国府は総社である大國魂神社の付近にあたことはわかっていたが、発掘調査の結果、府中本町駅と総社の間に国司館があったことがわかり2018年に史跡公園がつくられ館が復元展示された。 今回の散歩は東京競馬場から府中崖線にかかる八幡坂を登って大國魂神社に上がって行った。府中本町駅との間に広場ができ国司の館の柱がたてられ建物のの復元模型があった。

武蔵国府 国司館

武蔵国 総社(六所神社)大國魂神社
武蔵の総社だけあって立派。府中駅から続くケヤキ並木の参道はすばらしい。大宮の氷川神社の参道よりも立派かもしれない。上の地図に示した小野神社も実は武蔵国一宮を称している。地名も多摩市一宮である。大國魂神社の六所神社の一番にはこの小野神社がまつられている。氷川神社は3番目。

この神社には実にたくさんの狛犬がいる。西門の鳥居前の狛犬。新しく作られたものだが立派!何が?

武蔵国分寺・国分尼寺府中から北へ3キロほど行くと国分寺崖線にぶつかる。崖の下は湧水があり住みやすいところだったろう。国府からはかなり離れているがここに国分寺・国分尼寺がつくられた。もちろん国分寺市の名前はここから出たものである。現在国分寺を名乗る寺はあるが昔の国分寺そのものではない。現在の国分寺の前に元国分寺跡が残っている。国分尼寺は府中街道、武蔵野線の反対側にある。礎石が残っており公園として整備されている。下は真姿池の脇の清流、現在の国分寺山門

国分尼寺も公園として整備されている。地下の構造も見えるよう工夫されているが、今は入れない?
ここから鎌倉街道の急坂(国分寺崖線)を登って西国分寺駅に行く。本日の散歩、途中はスに乗ったので2万歩。

下総の国府 国分寺

下総国府 総社 国分寺

東京の江戸川から見ると川の向こうに一段と高い国府台の見える。和洋女子大の高層校舎があたりを見下ろしている。おそらく万葉のころにも国司が国府の高台から水郷地帯を見下ろしていたかもしれない。

さっそく国府歩きをしようと思ったが、国府台という名前はあるが、国府の位置は詳しくわかっていない。その理由はこの地が陸軍の軍用地になって古代の遺跡は全部破壊されたからである。私は京成電車の国府台駅から歩き始めた。すぐに真間川を渡り和洋女子大に向かって登って行く。

国府神社:台地への登り口に「国府神社」がある。国府の近くにあった神社だろう。
真間の手児奈と弘法寺

この高台の上に弘法寺がある。大きな寺で眺めは良い。石段の下の亀井院には万葉の美女「真間の手児奈」がいつも汲んだ井戸がある。手児奈はモテモテ女性で、多くの若者が言い寄った。しかし皆にこたえることはできないと真間川に身を投げて亡くなった。

里見公園 国分寺城

再び戻って松戸街道を北に歩き、国府台病院の前から里見公園に行ってみる。ここの高台に国府台城があったという。いろいろ書いてあったがこの辺りの攻防はなかなか激しい。里見八犬伝もその中から出てきた物語なのだろう。そういえば弘法寺には伏姫桜があった。里見公園の川沿いには湧水があった。

里見公園は桜の名所らしい。そこから再び松戸街道に出て指導表通り「総社」に向かうが坂を下ったら手前に矢印が出てきた。一本道なのにどこで通り越したのか。坂を上ってグランド脇にもどる。ここに看板があると言うが誰に聞いても知らないという。町の人に聞くとグランドからはたくさんの遺物が出て来たそうだがまだ国府、総社の位置を確定することはできないそうだ。そのまま坂を下り反対側の台に上がる。公園になっている国分尼寺跡を見る。

下総の国分尼寺

尼寺から国分寺までは500mほど。国分寺は台地の端にあり目の下に真間の町がある。昔の国分寺の後に現在の国分寺建てられている。昔の遺構は現在の墓地になってい場所だという。なんとなくありがたい。国府からは谷を隔てて国分寺の五重塔がまじかに見えたのではないか。ともかく国府台は谷と台地が入り混じった場所である。

国分寺跡と国分寺

総社(六所神社)があった。

総社の跡は陸上競技場の付近にあり碑が立っていると聞いた。しかしいくら探しても周りの人に聞いてもわからないという。何回か周りをうろついてみたが碑は見つからなかった。仕方なく国分寺に向かった。
国分寺、国分尼寺を見たが、総社の位置がわからないままあきらめて市川真間の駅に向かった。しかし途中で六所神社にであった。

この六所神社が実は「総社」であった。もとは市民グランドの中の高台(地図の赤丸)にあったが明治になって陸軍がこの地を接収したためにいまの低地に降りて来たと説明されていた。総社の碑は見つからなかったが、これで納得。

今回は私の趣味の狛犬がほとんどいなかった。ここ六所神社のは顔も崩れて無残だが、江戸期のものらしい。市川真間駅から戻った。2万4千歩。

とここまで書いたら、かの鉄人賀曽利から「総社跡の写真を持っているよ!」とのメールがあった。かなり悔しいが借用してここに載せておきます。でも写真は相変わらず下手だな!・・・・

賀曽利さんから借用

常陸国の国府、総社、国分寺

常陸の一宮は鹿島神宮であるが、その位置は常陸の国の一番南、利根川に沿った場所にある。利根川を渡った下総国の一宮は香取神宮だがその2社は非常に近い。そのために国府の近くに総社がつくられ国司はここでまとめてお参りしたという。なぜ国府と一宮がこんなに離れているのか、何らかの理由があるはずだ。おそらく鹿島神宮は大化の改新を行った藤原鎌足の出身地だということと関係ある。

常陸国府

常陸国の総社


常陸国の国分寺跡(現在の国分寺の敷地内)


現在の国分寺

一宮と総社、国府、国分寺!

昨年全国一宮巡りを一応は終えた終えた。昔の国(旧国)は明治の廃藩置県まで続いていた。その国も一番偉いのが一宮である。しかし旧国の中に、越前のように4か所も一宮がある場合もある。私が住む武蔵の国の一宮は埼玉県の大宮の「氷川神社」であるが、実はもう一つ、多摩市(聖蹟桜ヶ丘駅近く)に小野神社があり、武蔵一宮と称している。

一宮は当時の国の中心にあるものだとばかり思っていた。しかし大宮と武蔵の国府である府中市はかなり離れている。小野神社の方が国府に近いのでこっちが本当の武蔵一宮ではないかと思っていたが、実際に府中に行ってみると駅前には「大國魂神社」という大きな神社があり武蔵の国の「総社」とされている。

これは困った。せっかく一宮を巡ったのにさらに大きな総社があった。その総社はたいていは国府にある。またまた全国国府巡りをせねばならないことになってきた。調べてみると国府には国分寺、国分尼寺が配置されていたという。確かに武蔵の国の府中市、国分寺市と別々の市になっているが隣り合わせで近くにある。名前は残っているが国府跡、国分寺跡が見つかるのはいい方でその場所はよくわかっていないそうだ。となると全国の国府、国分寺探しをせねばならない。

幸いなことに現在の一宮の近くに国府があった場合も多い。そこで全国地図を広げて、まだ行ったことがない国府、国分寺を探し出して全国を回ってみることが、次の課題になってきた。今年はこのテーマで動くことにした。いつまでたてもコロナ終息は見えない。私は勝手に6月1日解禁、ワクチンも打ったので全国まわりを始めることにした。

一人ぶらりバー 目白台崖下散歩 

Stay Home が続いているのであまり遠くへ出かけることができません。友達を誘うのも躊躇します。しかたがないので一人で近所を歩き回っています。以下に載せたのは5月になってからのものです。4月中はブログにはなにも書かなかったので、日付だけさかのぼって乗せておきます。ほとんどはFBに載せたものです。地図の画像のようです

都立高校の先生を辞めたあと学習院高校で非常勤講師として週1回勤めていた。地学の先生はラグビー部の顧問で、昼休みに地学室に集まってビデオを見ていた。その中で顧問の自慢だった江見選手がいた。先日の決勝戦では福岡選手ばかりが目立っていたが、サントリーの江見選手の活躍もすばらしかった。彼は俺の教え子だぜ!とちょっと威張りたかった。木、通りの画像のようです

 その学習院の敷地は山手線の目白駅の隣接している。目白駅では階段を昇ったところに改札口がある。ホームは地面の下にあるが高田馬場側では線路の下を道路が通っている。改札口前の高度30m、反対側は線路下は5m、駅脇の道路の高度差は25mもあってかなりきつい。通り、道路の画像のようです
 本日は目白駅下の崖の続きを歩いてみた。実際には椿山荘の下から崖下を歩いた。木、アウトドアの画像のようです水域、木の画像のようですヤマップというアプリを使うと歩いたコースが2万5千分の1地形図に表示される(青い線)。その地図に崖線(茶色)を入れたのがこの地図である。歩いた道は旧神田川の流路である。学習院の下のカーブはまさにへび道。優雅に蛇行している道路はきもちいい。道路、木の画像のようです
 木、自然の画像のようです24日椿山荘の次の写真は関口芭蕉庵、松尾芭蕉は江戸に出てきてからしばらくは神田川改修の土木仕事をやっていたららしい。その時に住んでいた場所がここだ。現在の入り口は胸突き坂の途中から入る。次の写真が胸突き坂と水神社の景色である。この文章の上の写真は幽霊坂であるが、それは新江戸川公園(旧細川藩の屋敷の庭園:永青文庫)の横から上がる坂で、昼なお暗いので幽霊坂と呼ばれる。胸突き坂と違って階段(怪談)はないので年寄りにはきつい坂である。木、アウトドアの画像のようです坂の上が和敬塾、地方からの学生が寄宿した寮で500人もの学生が住む。村上龍もこの塾出身。今は外国からの学生も多い。前川喜作という篤志家が細川屋敷の一部を取得して建てた。元文部次官の前川喜平は孫。木、自然、草の画像のようです
アウトドア、木の画像のようです
 目白駅の下をくぐって進むと「おとめ山公園」に出る。子どもたちが湧水でできた池でザリガニ取りをしている。おとめ=乙女ではなく将軍家の鷹狩り場で他の人は入れない「御留」山だった。お留山をすぎるとボタンで有名な薬王院。そのわきの坂はまたまたきつい。

第6章 天照大神、伊勢へ旅する!

伊勢と三輪の神の故郷を、神さまの気分になって旅をしてきた。西洋では絶対的な神が生まれたが、アジアの国々では自然神が八百万も存在し新しい神も続々と生まれた。全国に数多くある天神社は菅原道真を神に見立てて祀っている。近いところでは明治の軍神を祭った乃木神社や東郷神社もある。明治神宮も明治天皇を神さまにした神社である。

三輪山に祭られている大物主神、大国主神、少彦名神もモデルがあるのかもしれない。さらに天照大神ももしかするとヒミコをモデルにして神さまに仕立てたのかもしれない。実在のモデルがある時には、その人物を「命」と書き表すことが多い。この後出てくる倭姫命(やまとひめのみこと)も実在の人だったのかもしれない。大国主神の場合も大国主命と書くことも多い。各地にいた大王さまはみな大国主命だったのかもしれない。

「三輪の神紀行」の頃? の大和盆地は様々な勢力が相争っている場所だった。勝ち残った勢力が作った物語が「古事記」であり、そこに出てくる神々はそれぞれの勢力の主だった人を神格化していった。今回「三輪の神紀行」で仕入れた大和盆地の出来事を一覧表にしてみた。
「なにこれ? そんな勝手なことを言って!」
と言われるだろう。創作部分もいくつかあるが、これが私のまとめである。

最終章は天照大神の伊勢への旅である。神さまの後を追跡してみよう。

{図の説明:大和の三輪山には出雲や石見の勢力がやって来て土着した。いわゆる大物主神の系統の人々である。九州から天照大神を奉じる神武天皇、崇神天皇が来て、大国主神系にとってかわった。しかし崇神天皇のときに疫病のパンデミックがあり、日巫女がそれを納めた。天照系の人々は大和を追われた。九州にいた天照系の神功皇后が大和に戻り台与(トヨ)として日巫女の後を継いだ。トヨの息子が応神天皇として大和を支配した。応神天皇は八幡神として祭られ、天照大神は倭姫命に連れられて伊勢に移った。}

 

 

■6-1 御杖に案内されて旅する天照大神

6-1 御杖と天照大神の旅

国民の半分が亡くなるようなパンデミックの原因であるとの託宣を受けて天照大神は天皇の宮から小さな桧原神社へ移された。しかし桧原神社も安住の地ではなくなった。天照大神は御杖代(みつえしろ)に導かれて終の棲家を求める旅にでる。

尊い神さまの道案内をするのは位の高い巫女でなければならない。最初の御杖代は崇神天皇の皇女であるトヨスキイリ姫がうけもち、まず丹後の天橋立にご案内をした。(当時丹後はまだ丹波国の一部だった)天照大神は、姿、形はないのでトヨスキイリ姫自身が丹後の国に行ったのだろう。

天橋立の根元に丹後一宮の籠(この)神社がある。その奥宮を「與佐宮」という。與佐は「よさ」と読む。天橋立の内海を与謝海といい与謝蕪村の出身地でもある。与謝野晶子もこの地と関係がある。トヨスキイリ姫は與佐宮に4年間滞在した。籠神社は「元伊勢」とも呼ばれ、社伝にはここから天照大神は伊勢に移ったと記されている。

もう一つ、天橋立からそう遠くない大江山にも元伊勢がある。こちらには伊勢の内宮、外宮、天岩戸神社など全部セットでそろっている。皇太神宮の屋根には10本の鰹木、内削ぎの千木がある。これは伊勢神宮内宮にしか許されていない象徴である。ここも元伊勢なので特別に認められているのかもしれない。しかし天照大神がおられたという記録はない。

丹後の與佐宮で4年間過ごされた天照大神は大和の桧原神社に戻ってこられた。トヨスキイリ姫が老齢になり旅する生活に疲れ御杖代の役目が果たせなくなったからである。
その後、景行天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)が御杖先に選ばれて再び旅に出ることになった。倭姫は倭建命(ヤマトタケルのミコト)のお姉さんである。

『日本書紀』の伊勢神宮起源伝説には、次のように書かれている。
「天照大神をトヨスキイリ姫より離して、倭姫命に託した。倭姫命は天照大神を鎮める場所を求めて、宇陀の篠幡(ささはた)に詣でる。更に近江国に入り、東のかた美濃を廻って、伊勢国に到る」

この記述をもとに鎌倉時代に『倭姫命世記』という書物が作られた。この書によると倭姫命が近江、美濃のどこを回ったか詳しく記されている。
私は旧跡歩きが大好きなので、まず倭姫命世記に記された社の位置を地図に落としてみた。
「直接伊勢に行けばいいのに、なんでこんな遠回りをしたの?」
こんな疑問がわいた。

日本書紀を企画したのは天武天皇である。天武天皇は隠れていた吉野を出て、近江にあった朝廷に対しクーデターを起こし政権を奪った(壬申の乱)。倭姫命の旅のコースは天武天皇の近江朝への進軍コースの逆コースである。「倭姫命世記」の著者ははるか昔の天武天皇に忖度してわざわざ遠回りコースを作り出したのだろう。
私の「倭姫命の旅」は電車バスを乗り継いで2泊3日の旅になった。その時作った地図を記しておく。地理歴史鉄道好きの人にとってはかなり興味深いみちである。

もう一つ倭姫命のコースではないが伊勢本街道にも御杖代のコースがある。こちらには「御杖村」という名前の村があり「つみえ」ちゃんというキャラクターが迎えてくれる。御杖神社もいい神社である。

伊勢本街道を私は一日で走ったことがある。多気駅から初瀬までほぼ80キロ、山道には7つの峠がある難所だった。朝早く多気駅を出たが途中で真っ暗になった。アメリカ大陸横断ランニングをした下島伸介という猛者といっしょだったが、最後の峠では狐火をみて本当に恐ろし思いをした。小さなライトを頼りに宇陀の墨坂神社の近くまで来たときに急に参道の灯篭に明かりがつき我らの行先を照らしてくれた。

その頃はまだ「つみえちゃん」はいなかったが、御杖代が我らの行先も照らしてくれたのではないかと感謝している。墨坂神社から長谷寺の宿までは里道を走った。明るい初瀬は大都会だった。伊勢本街道は神武天皇が太陽(天照大神)をうしろだてにして、東の方から大和に入ってきた道だと後で知った。

■6-2 天照大神の安住の地が定まった。


倭姫命に導かれ、天照大神は伊勢の国を南下して五十鈴川のほとりについた。
「ここはいい場所だから、ここに静まろうと思う」
と神はおっしゃった。
伊勢神宮の内宮(ないくう)である。

倭姫命は天照大神を伊勢までお送りしたあと、「斎王」(さいおう)として伊勢神宮の近くに「斎宮」(さいくう)を建てて神を見守ることになる。
倭姫命は神話の話であるが、歴史上最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘の大来皇女(おおくのこうじょ)がその任務を担った。斎宮で天照大神を祀るという斎王制度は、南北朝の時代まで約660年間続き60人の斎王の名が残されている。

斎王は、新たに天皇が即位すると未婚の皇女の中から占いで選ばれ、京都の野宮(ののみや)で精進潔斎して伊勢の斎宮に向かった。平安時代、お供の人数は500人ほどで大行列になった。この大行列を「斎王群行」といい国家の重要行事になった。伊勢の斎宮は多くの人々の集まる都市のようになった。

斎宮は近鉄の斎宮駅の近くで、現在も発掘作業中である。ここには巨大な斎宮(さいくう)の館があったことがわかっている。斎宮の地には博物館が作られており、その歴史を見ることができる。

倭姫命は無事にお役目を果たし、斎宮で静かに余生を過ごし亡くなった。お墓は天照大神のおそばの内宮に作られた。いま倭姫宮として天照大神を見守っている。

と、私は思っていた。しかし物語はまだ先があったことを、このあと志摩に行って知らされた。そのことは後に述べることにして、とりあえず倭姫命のお導きの役目は伊勢内宮に天照大神をお祀りしたことで無事に終了した。

■ 6-3 伊勢神宮外宮(げくう)

伊勢神宮 外宮(げくう)

2013年10月、外宮の式年遷宮の日、まず宇治山田駅から伊勢の外宮を訪れた。外宮の神さまは豊受大神で、天照大神が丹後一宮の籠(この)神社におられた時に知り合った神さまで、天照大神が伊勢に鎮まった500年後に呼び寄せたという食べ物の神である。(上の写真には丹波とあるが、律令制以前は丹後は丹波に含まれていた)

遷宮祭は夜に行われるので一般人は昼間のうちにお参りする。昼間はまだ古い方の社に神さまはおられるので、私たちはそちらの宮の前で頭を下げた。伊勢神宮ではお賽銭をあげるなどは失礼にあたるとされているので賽銭箱など置いていない。もともとは皇室、公家、寺など専用の神さまで、天下国家の安寧を願うもので、一般庶民がささいなお願いをしてはいけなかったのだ。

しかし中世の戦乱で領地や社殿も荒れてしまい、式年遷宮もできない状況になった。そこで方針転換して神職だった御師(おんし)は全国各地を回り伊勢参宮を進めた。
江戸の時代、世の中が落ち着いてくると現世利益を求めて江戸からも多くの庶民が訪れるようになった。江戸からは片道2週間ほどかかるが、庶民は「講」を作って代表者が代参するという方式がとられた。講の所属員はいつか自分にも順番が回ってくる。旅が自由になった今でも「伊勢講」は各地に残っており、旗を先頭にお参りしている姿が多くみられる。
昔は皇室、公家らの専用であったが、今は日本国民が一生に一度は行きたい神社として宣伝が行き届いている。庶民の私もこれまで何回もお参りができるようになっている。

伊勢神宮の社殿は高い垣根で囲まれており、中の様子をうかがうことはできない。しかし外宮の屋根だけはみえるので、鰹木の数を数えてみた。9本で千木は外削ぎになっているので男神であることが分かる。外宮には天照大神と食事をともにする神が丹後の籠神社から呼び寄せられた。千木の数が男女神を示していると言われているので、9本の千木の神社の神は男神である。天照と一緒にお食事するのは男神である。

屋根は茅葺である。20年もたつとずいぶん傷んでいる。これじゃあ雨漏りするかも知れない。伊勢神宮の造りはすべての唯一神明造と言われる古い様式である。何の手も加えてはいけないので痛みは速い。20年というのは茅葺屋根の耐久限界かもしれない。

すぐ隣の敷地にはすでに新しい社殿が用意されているので、本日夜に隣に引っ越される。わずか十数メートルの移動だが厳かな儀式が行われる。遷宮が行われると古い社殿はすべて取り壊され、砂利の敷地になる。使える木材は全国の神社に下賜されるので無駄にはならない。

宿に戻って夜の遷宮の様子をテレビで見た。神さまをお導きする斎王の役目は天皇の皇女の黒田清子さんが務められた。斎王制度はとっくに廃止されているが、その形式は今も多少は残されているのだろう。

 

■ 6-4 涙こぼれる伊勢内宮

内宮への道
まず伊勢神宮の外宮に参ってから内宮に行くのが順序である。今は御木本道路が付けられているがそれでも4キロほどあり、みなさんはバスで移動する。私は昔の参宮街道で旧古市遊郭に向かった。弥次喜多のお伊勢参りはまず第一番に古市に行き、その後に外宮に参るという罰当たりな参詣であった。

私は正しく歩いて、「おはらい町」の繁華街に出てから五十鈴川にかかる宇治橋の前に出た。お参り前なのでもちろん「赤福」などは食べなかった。
立派な鳥居をいくつかくぐり一番奥の宮の入り口につく。内宮の遷宮は外宮の遷宮よりも前に終わっており、神さまはもう新しい社殿にお移りになっている。石段を登って社殿を見ようと思ったが、周りは新しい垣根がめぐらされ、鳥居には御簾がかかっているのでまったく見えない。後からドローンの映像を見て、御簾の内側の様子が分かった。

こんなに立派な社殿を皆が見ることができないなんて、残念だ。中に入ることができるのは皇室の方だけかと思っていたが、実は明治になるまで天皇は伊勢に参拝したことはないという。それまでの天皇家は仏教徒として寺に葬られていたのだ。
明治になって神仏分離をして国家神道になったので、明治天皇や昭和天皇は伊勢神宮に参拝できるようになったが、第二次大戦後に新しくできた日本国憲法で政教は分離され、天皇は公式に神社にも寺にも参ることはできなくなった。

内宮、外宮は垣根が高くて中を見ることはできないが、数多くある末社は全体を見ることができる。ほとんど外観は変わらないという。私もすぐ近くにある別宮の荒祭宮(あたまつりみや)に詣でた。新旧の社がまだ並立していた。写真のように、自然のままにされていた旧社殿は傷みが激しい。改めて20年遷宮の意味が分かった。

内宮の深い森の中を歩くと、西行法師の
「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
言葉をおもいだす。
西行ほどではないが、私も「なみだこぼるる」ありがたさを感じる。特別の現世利益をくださるわけではないが、なにか清々しく感じられる。
深々とした森、五十鈴川の清流などの装置にも感動するが、それ以上に神さまが苦難の旅をされてきたという物語があってこそ、涙こぼれる思いになるのではないか。