隠岐国府総社断崖国分寺

島根半島の北方約50 kmに位置する島々で、隠岐群島とも呼ばれる。大きな島は本土に近い島前と空港のある島後のふたつである。島後は単独の円錐形の島だが、島前は沈水した火山でカルデラ部分に海水が侵入している。地形的には対照的な二つの島だ。国府、国分寺は島後にあるが、後醍醐天皇が流刑になった黒木御所は島前にある。

国府 総社
隠岐の国を作ったのは水若酢と玉若酢の二柱の神さまである。玉若酢命を祭る玉若酢神社の地に国府があり、総社の役割をしていたという。国府の遺構はわからない。

国分寺 
現在の国分寺が古代の国分寺を受け継いでいる。国分寺に後醍醐天皇の行在所が作られた。しかしその後行在所は島前の黒木御所に移った。古代国分寺の建物の礎石が境内に残されている。

国分尼寺
国分寺の隣に隠岐の常設の闘牛場がある。ちょっと驚き。国分寺から500m離れたところに国分尼寺跡がある。

隠岐一宮 水若酢神社
島後の内陸部にある。祭神は水若酢命、本殿は隠岐造りで立派。

隠岐一宮 由良姫神社
島前にも一宮がある。イカ寄せの行事があるそうだ。

島前 中央火口丘 焼火神社
島前の島々は中央の焼火山を囲むように取り巻いている。登ってみたらすばらしい神社があった。

隠岐諸島は火山の島、断崖絶壁 おまけ

壱岐国国府総社島分寺


壱岐には2012年、一宮巡りのために行った。その時国片主神社に国府の碑と国分寺跡があったので、国府国分寺巡りもしたつもりだった。しかしWikipediaや「国府物語」を見ると、壱岐一宮天手長男神社の近くにある興神社に国府(こう)があったという説が書いてある。その説の方が説得性があると思っている。

壱岐島には縄文時代から人が住み、弥生時代には「原の辻遺跡」など大きな集落ができていた。原の辻遺跡は一支国(いきこく)の跡だと言われる。壱岐島はやまと政権の下で一国とされ国府(島府)がおかれ国分寺(島分寺)が作られた。現在博多港からフェリーやジェットホイルが出ているが、福岡県ではなく長崎県に所属している。

国府1
芦辺港から西に歩くと石段の上に月讀神社がある。さらに国分郵便局に向かうと道路際に国片主神社がある。この神社が国府の跡であると石碑に書かれている。またこの場所の地名は国分であることも国府の証拠だと私は思っていた。

国分寺跡
国片主神社の裏手に国分寺の跡が残っている。島にあるので島分寺と呼ぶこともあるそうだ。残念ながら写真は2枚しかない!跡を継ぐ現在の国分寺が近くにある。

国府 総社
実は国片主神社の南にある「興(こう)神社」が「国府(こう)神社」であるという説の方が有力であることをWikipediaで知った。興神社の西南の森の中に小さな総社があるそうだ。興神社の前を通ったが写真は撮っていない。Wikipedia の写真を借ります。後で賀曽利さんが写真を送ってくれるでしょう。・・・すぐに送ってくれたので全部入れ替え。

壱岐一宮 天手長男(あまのたながお)神社

興神社の西の方にある。江戸時代に壱岐一宮とされたが、本来の一宮は興神社であったかもしれない。2012年私は壱岐一宮として参拝した。小高い鉢形山上にある神社で、対岸の森には姫宮(天手長比米神社)の鳥居がある。

天手長比米神社

原の辻遺跡
2012年は一宮と原の辻遺跡を見るために壱岐島にやってきた。吉野ケ里遺跡と同じような復元がなされている。壱岐国は先進国だったことがよくわかる場所だった。とりあえずは写真だけ入れておきます。

今回は、2012年の訪問の時の写真を見ながら壱岐国の国府、国分寺を考えてみた。今になって思えば、レンタカーを借りて何回も行き来したの、なんで興神社の写真がないのか?やはり歩き回らねばならないな。でももう行けないので賀曽利さん、写真よろしく!   ・・・早速送ってくれた。ありがとうございます。これで何とか格好がつきました。

若狭国府、国分寺、一宮、水送り寺

若狭国の位置 

若狭の国は日本海側に開いたリアス式海岸にある。若狭湾には良い港がたくさんあり、多くの人の出入りがあった。この地は遠敷(おにゅう)郡という名前だったが、これはなかなか読めない。古代の朝鮮語との説もあるそうだ。良港があり多くの魚介類が水揚げされた。若狭の国は御食国(みけつくに)と呼ばれ水産物を朝廷に貢いだ。御食国は他には志摩国、淡路国がある。これら二国と比べ奈良、京都には遠いが、東大寺の荘園があったりしてつながりは強かったようだ。

国府 総社
私は2008年2018年に若狭一宮を巡るために若狭を回った。この時は国府について関心がなかったので若狭一宮、若狭国分寺がある東小浜駅で降りた。後で調べてみると小浜駅近くに「府中」という集落があり「総社」もあるという。国府の遺跡は見つかっていないようだ。地図を作ったが写真はない。

きっと後で賀曽利さんが「エエーッ 行ってないんですか! それじゃこの写真を使って」と言ってくれると思うので、とりあえずはストリートビューからコピーしたダミーの写真を入れておきます。・・・・・早速賀曽利さんから写真が来ました。ダミー写真と交換しました。バイクが写っているのがいいね。

下の地図はなかなか面白い。若狭国は五芒星の中心にあり、陰陽道では重要な位置なのではないかと思う。と言ってもこの五芒星は大江山でも見たなぁ!

国分寺 国分尼寺
遠敷郡誌には以下のように書かれている。「聖武天皇の勅願によって毎州に國分寺がおかれ、若狭にも國府の近く建てられた。文永二年(1265年)國分寺16町4反餘,國分尼寺7町5反餘を領す。天正五年兵火に罹り烏有に歸すが、慶長15年釋迦堂を再建され國分寺に本尊釋迦如来と安置された。尼寺庵には堂を建て尼僧が住んだがその後禪寺となり曹洞宗の僧があとを繼ぐ」

国分尼寺は再建されて「尼寺庵」となったが、その後曹洞宗の寺になり薬師如来を安置した。明治の時代になって尼寺庵は国分寺薬師堂となったとある。ということは現在の国分寺の場所には国分尼寺があったことになる。今尼寺の跡についてはどこにも記述がないが、この辺りに国分僧寺と国分尼寺が並立していたのかもしれない。

若狭一宮 若狭彦神社:若狭姫神社
小浜市の歴史資料館は東小浜駅近くにある。そこから遠敷川を遡ったところに下社の若狭姫神社がありさらに遡ると上社の若狭彦神社がある。若狭一宮について

水送り寺

若狭彦神社のさらに上流に神宮寺がある。昔々奈良の都で神々の集まりがあった。若狭彦神は魚釣りをしていて遅刻をしてしまった。お詫びに毎年若狭から奈良の都にお水を送ることになった。東大寺二月堂閼伽井での「お水取り」の行事の発端である。こちらでは「お水送り」で1か月前に鵜瀬という川岸で行事が行われる。

鯖街道
大昔から奈良、京都とのつながりはあったが、江戸の時代になると新鮮な魚を一日で京都まで運ぶ道ができた。それが鯖街道である。距離は72キロだが山道を一昼夜で行くことは難しい。友人たちは鯖街道マラソンをやっていたが、速い人は10時間以内で到達した。昔もそんな人たちがいたかも?

山城国 恭仁京 国分寺 国分尼寺

山城国は五畿七道のうち畿内に属している。いまの京都府にほぼ一致する。山城国は最初は山背国と書いた。平城京から見ると平城山のすぐ裏にあたることから山背と書いたようだ。この国の国府がどこにあったかよくわからない。

しかし山城国内には古くから都が5回も移り最終的には平安京が千年以上も続くことになった。山城国の国府というよりも日本国(?)の首府と考えたほうがいい。740年聖武天皇はなぜか山背国に新しい恭仁京を造成する。この地は橘諸兄が治めていた地であり彼に命じて都を作ったのである。しかしこの首都は5年しか持たず、聖武天皇は奥様から平城京に呼び戻された。

聖武天皇と光明皇后は全国各地の国府近くに国分寺と国分尼寺を作る詔を出した。恭仁京跡には国分寺が作られた。山城国には国府候補地がいくつかあるが、私は恭仁京の地が最初の国府だったと思うことにして出かけた。

国府 総社
奈良線の上狛駅から歩いた。私は狛犬の愛好家で日本国中の狛犬に会いに行っている。その「狛」と名のついた駅があるのだから行ってみないわけにはいかない。しかし狛犬はどこにもなかったが20分ほど歩いたところに高麗寺跡遺跡があることが分かった。狛犬は高麗犬とも書く。上狛駅は高麗寺から出てきた名前であろう。猛暑の中高麗寺に行ってみる。柱跡が残る立派な史跡で、もしかするとここが国衙(国府の建物)かなどと考えた。

この史跡から暑い道を山城郷土資料館へ行った。コロナのせいかわからないが本日休業。入り口でまごまごしていたらちょうどタクシーがやってきた。この後国分尼寺跡を見に行くという人がいたので便乗させてもらった。尼寺跡を確認したら木津駅に戻るというので木津川橋で降ろしてもらい、あるいて恭仁京に向かった。

恭仁京 国分寺

木津川橋から恭仁京までは交通量の多い木津川沿いの国道を歩いた。暑い日だったが交通量が多いことを除けば木が生い茂って多少は涼しかった。しかし恭仁京の区域の入ると視界は開け、古代の都が作られた場所のように感じた。

木津川市立恭仁小学校は木造の立派な学校だった。学校の裏手に大極殿跡があった。恭仁京は5年ほどで終わり、聖武天皇は平城京に戻った。その都で全国に国分寺と国分尼寺を設けるように詔を出した。その国分寺が恭仁京跡に立てられて長く続いたらしい。この史跡は都跡と国分寺跡が重なっているのである。

ここから坂を下って加茂駅に向かおうとした。交差点で工事している人と「暑いね!」と言いながら目の前を見ると民家の壁に「arumitoy]!、ムム!
ちょっと訪ねてみた。地平線会議の仲間の木のおもちゃ作家の工房だった。汗だらけでお邪魔してゴメン! 車で送りましょうか! 汗だらけだったので辞退して駅まで歩いた。まだ暑い。乗せてもらえばよかった!

国分尼寺
聖武天皇の奥さんは光明皇后、彼女が大和に総国分尼寺である法華寺を作った。各地の国分尼寺も法華寺、法花寺ともよばれた。山城資料館からタクシーに便乗して法花寺野まで行った。ちょうど恭仁京跡の対岸である。ここには碑が立っているだけで発掘跡は何もない。

山城の国全体から見るとあまりにも辺境にある。平城京から見ればごく近い。後に千年の都になる平安京のある山城国だが、平城京のころにはまだまだ開発されていない場所だったのだろう。それについてはまたあとで考えよう。ただただ暑い恭仁京、山城国分寺訪問だった。アッツ、思いがけない出会いのあった訪問でもあった。

もう一つの国府 大山崎の離宮八幡宮
賀曽利さんが国府の写真を送ってくれました。これも山城国のもう一つの国府です。こっちの方が新しい。

加賀国府 総社 安宅関

加賀百万石の土地だが、古代加賀国は越前国から分かれた「中国」だった。しかし田畑も人口も増えすぐに「上国」になった。その後もよい土地、白山などの山々、北前船の港もあって大きな国に発展していった。国府
加賀の国の中心は今は金沢だが、古い時代、国府は小松にあったようだ。発掘による国府跡は確定していないが国府、国府台の地名から大体の位置は推測できる。古府(ふるこ)の地名は国府村と古江村が合併してできた名前で古いものではない。

総社 石部(いそべ)神社

古府バス停の近くに総社・石部(いそべ)神社があり、この辺りに国衙(国府の建物)があったことは疑いない。安宅の港とは梯川沿いにつながっており、日本各地とのつながりも大きかったようだ。

追加 賀曽利さんの写真です。彼も訪れたのは夕方のようです。(注:確かめたら、これは早朝の写真だそうです)

近隣の神社
古府のバス停までの交通はあった。しかし帰りの便は日曜日だったので最終便が4時ごろだった。バス停に着いた時、小松行の最終バスは平日と違って2時間も前に終了していことがわかり、どっと疲れがでた。しかし恨んでも仕方がない。1時間半も歩けば小松駅に着くはずと歩き出しすと道沿いにいくつかの神社が出てくる。社殿の形はどれも同じ。石造りの五重塔もすべて同じだった。八幡神社の石碑には郡衙と国衙の真ん中にある神社と書かれていた。郡衙は市役所、国衙は県庁の建物という感じだ。歩き疲れたが、寄り道はこの地を知るうえで大変貴重な体験だった。駅の1キロほど手前で親切な人が車に乗せてくれた。加賀国の人は親切だった。もちろん能登国の人も親切だった。車で案内してくれた上にお寿司、アイスをご馳走してくれたもんなぁ。国分寺

古府のすぐ近くに国分寺がある。どう見ても民家だが近づいてみたら「国分寺」の看板があった。玄関にいた住職さんにお聞きすると、昔の本当の国分寺は国府郵便局のあたりにあったらしいが、私の国分寺とは関係がない。戦後に新しく寺を作った時に近所の人と相談して「国分寺」にしたそうだ。東大寺とは関係ない寺である。

安宅関

言わずと知れた義経と弁慶一行を見張るために作られた関所である。弁慶は修験者一行として偽の「勧進帳」を読むが、関守の富樫は義経がいることを見破る。しかし見て見ぬふりをして一行を平泉に向かわせる。歌舞伎の勧進帳の名場面だそうだ。

実はここに関所があったかどうかはわからない。加賀の国府津(港)であり、義経一行もこの津に上陸した。本当は地元の豪族が歓待をして平泉に向かわせたのだろ。正式の関所があったら、見逃したりはしない。歌舞伎のお話だろう。安宅関を訪れたのは2012年、まだ国府、国分寺に目が向いていなかったので、そのまま那谷寺に向かう観光コースを行った。今回梯川を歩いたことで、国衙、郡衙、国府津のイメージがつながった。寄り道は大事だよ!

越前国府 総社 国分寺

 源氏物語の紫式部は生涯一度だけ都を離れた。その場所は越前太介不(たけふ)今の武生である。藤原為時が越前守に任じられたので、父に連れられて20歳のころに越前の国府に来た。住んだのは今の京町のあたりだったようだ。
国府 総社 
国府跡は現在の越前市役所、昔の城府城の場所と考えられている。城の西にある総社の境内に「越前国府」の石碑が立っている。「武生」の名前はJR武生駅に残るが市の名前は越前市になった。地元民の選択だが、歴史、地理好きの人間にとってはかなり寂しいものだ。国府遺跡はこの辺りで一部発掘がなされているが市街地に覆われているのであまり進んでいない。総社は国府跡に城を作った時に現在の地に移動したことが分かっている。

国分寺
国分寺は総社と細い路地を挟んだ場所にある。周りにある多くの寺と比べると小さい。総社と同じく武生国府内にあったようだが、現在の地に移って昔の国分寺の法灯を守っている。しかし国分寺は大虫寺に移ったとの記録もある。

大虫廃寺跡
地図を頼りに大虫寺跡に向かった。近くまで来たがどうしてもみつからない。史跡であるからどこかに案内があるはずと探し回ると、あった!なんと新しくできた大きな工場の中だ。史跡をこんな感じに私物化していいのか。守衛所で許可を得て中に入って写真を撮るが、なにか釈然としない。しかし大企業に守ってもらうからまあいいのか?

朝早いので出勤者の車の渋滞に出会った。その中に制服姿で歩いてくる一団があった。外国人労働者だ。群馬県の太田や三重県の亀山でも大企業に向かう制服の外国人労働者に出会った。地方都市では普通の光景だが、これもなにか釈然としない感覚になった。
30分ほどかけて町中にもどり少し歩く。お寺も多く、いい感じの街並みがある。ギャラリーの看板のネコは本物。2か所の国分寺は新と旧の場所にあった。

伊賀の国府 国分寺

伊賀国府
伊賀国庁跡は2009年国の史跡に指定された。それまで府中町辺りにあるのではと考えられていたが、坂之下字国町(こくっちょ)の台地の上を発掘して確認された。JR関西線の「佐那具」(さなぐ)駅のすぐ近くである。
伊賀一宮の敢国(あえくに)神社と国分寺には2018年に行ったが、その時には国府には行かなかった。今回関西線に乗ることになったので途中下車して次の列車(ここは電化されていない)を待つ間に伊賀国庁跡を見に行った。結果はすでに埋め戻され一面の畑と水田になっている。何年か後にここは整地され、史跡公園になる計画があるようだがいつになるか。

総社 府中神社?
伊賀の総社はないと書かれている。近くに伊賀一宮の敢国(あえくに)神社があり、総社は必要なかったとの説明だ。この府中神社には古い歴史はないようだが私が考えるに国庁にすぐ近い。神様を集めたのは明治時代なので総社というわけにはいかないだろう。この総社は私的に「総社だったらいいな!」という程度。

伊賀一宮 敢国神社

国分寺 国分尼寺
佐那具駅のそばにある伊賀国庁遺跡の北側に楽音寺があった。この寺が聖武天皇の詔で作られた国分寺であった。しかし現在の国分寺跡に移転した寺が後継寺があったようだ。国分寺跡は史跡として整備されている。 国分尼寺は長楽山廃寺らしいが整備はなされていない。

能登国府 総社 国分寺


能登国は古くからあった国だが越前国に併合されたり離れたりした。律令の国になった時には「中国」として独立した能登国となり、元の越の国は5国になった。現在いずれの国府も確認されていない。能登国も国府は不明だが、七尾市に「古府(ふるこ)」町「府中」町があり、国府の地ではないかと思われている。

国分寺の発掘は行われており「のと里山里海ミュージアム」が作られており、資料が展示されている。私は2008年、2012年に国分寺跡の見物に来ていた。その時にはこんな立派なミュージアムはなかった。

国府 印鑰神社
能登の國衙の印璽を保管したのがこの印鑰神社である。印は土中に埋められていたが文緑年間に郡奉行の三輪藤兵衛の夢告により発見したという。オオーツ! わが身にも関係があるのだと嬉しくなった。印鑰(いんにゃく)神社は「府中」にあり、このあたりに国府があったことが推定される。

印鑰神社は「でか山」の組み立て神社で、境内には写真のようなとてつもなく大きな車輪が展示してある。5月に行われる青柏祭(せいはくさい)で練り歩く山車で、高さ12m、重さ20トンの日本一巨大な山車だという。鍛冶町、府中町、魚町の三台の山車が七尾の街を引き回されという。ぜひ見たい祭りだ!

能登国総社
国分寺の公園の東の山麓にこの神社がある。社殿の形は印鑰神社と同じ。本日はとんでもない暑さだたが、この森の中の神社は清涼、案内をしてくれたONOGUCHIさんは冷たい飲料、アイスを用意してくれた。生き返った。

国分寺
南門から回廊の塀を見る。これは2012年の時にもあったなあ。左手に新しいミュージアムができている。下の写真(右端)は2012年、外側からの写真。

国分尼寺の跡は見つかっていない。もしかするともともとなかったかもしれない。

これまでは七尾の駅から歩いてきた(2キロほど)が、今回はとてつもなく暑いので、地元在住の友人の車に乗せてもらった。
「こんな暑いのに何やってんの?」
「何回も来るなんて、あほじゃない? 意味わからないよな!」
と褒められた。
意味わからないと言いながら、お昼は地元の有名なお店で豪華お寿司をご馳走していただいた。
七尾の駅からは豪華列車ではなく、普通の列車で金沢へ! もう一枚の写真は印鑰神社の前のフィッシャーマンズウォーフから見た港。

能登の二宮
能登の一宮は気多神社で羽咋市にある。国府からはかなり遠い。能登二宮駅は七尾からは近い。この神社には2012年に訪れている。なかなか珍しい狛犬がいたのでよく覚えている。空を飛んでいるのかな。

但馬国 国府・国分寺

豊岡市はジェンダーギャップの解消を他に先駆けてきた。しかしこの政策を掲げた市長は21年4月の選挙で敗れた。この地域の人は但馬国にはジェンダー問題はないと選択したようだ。
しかし但馬国には国分寺、国分尼寺の両方が残されていた。他国では国分寺跡があるが国分尼寺跡は消えたところが多い。豊岡に国分尼寺跡が残るのは「ジェンダーフリー」の象徴のように見えるのだが。

但馬国府

JR山陰線の豊岡駅と江原駅の間に「国府(こくふ)」という無人駅がある。さらに府中新、府市場など国府をイメージする地名がある。昔の文書には国府は気多郡にあると書かれている。旧日高町役場の「祢布森遺跡」に国衙があったのではないかと思われているようだ。

その場所に「国府・国分寺館」がある。日本国では唯一の「国府・国分寺館」だったが2015年「豊岡歴史博物館」となった。国府国分寺Fanにとっては残念なことだ。このブログのタイトルは15年以前のものである。現在の看板は下に表示してある。

総社 気多神社
植村直己さんの生家のすぐ近くに総社、気多神社がある。参道はもっと長かったはずだが今は堤防の下になっている。社殿の彫刻がすばらしい。中井権次という名前を継ぐ彫師の作である。但馬、丹波地域の神社には権次作の彫刻が見られる。もう一つの写真は竹野の天日神社のもの。

国分寺

旧日高庁舎の裏手に国分寺跡がある。ここには後継の寺である国分寺もある。金堂跡、回廊跡 礎石など発掘調査記録は国府国分寺館に残っている。七重の塔は国分寺館に縮小復元されている。

私は2006年の但馬国分寺跡を訪れていた。その時の写真を追加しておきます。

国分尼寺
国分尼寺が残っていることは少ないが、日高東中学の駐輪場前に石碑があった。礎石がいくつか残っているが、その範囲は中学校の敷地内である。学校になっているのは尼さんも許してくれるだろう。国分尼寺は法華寺という。

但馬一宮 出石神社

但馬には一宮が二つある、一つは粟鹿神社だがこれは和田山にあり但馬の国府からかなり離れている。一方出石神社は豊岡市にあり、国府との関係は深かったと思うので、ここに並べておく。但馬一宮は別にアップしてある。

但馬を開いた天日槍(あめのひぼこ)神を祀る。新羅の王子で赤い玉から生まれたアカル姫と結婚する。しかしアカル姫は気分を害して難波に去ってしまう。彼女を追って日本に来るが難波には入れず但馬に来てここで国を開いた。

天日槍の子孫に田島間守がいる。奈良の垂仁天皇陵の陪塚はこの人の墓であるとされる。さらに子孫に息気長足姫尊がいる。応神天皇の母、神功皇后である。神話と歴史が入り混じった想像力豊かな地方である。

演劇の街

豊岡は演劇の街も目指している。出石には歌舞伎小屋がある。もとはパチンコ屋になっていたが市の主導で立派に改装して2012年にお披露目があった。片岡愛之助さんが毎年座長で公演している。 さらに2019年平田オリザさんが主宰する劇団も豊岡に拠点を移した。芸術文化の専門職大学も開学し、演劇の街は発展するかに見えた。しかし「演劇の街などいらない!」と第一声を上げた候補が市長になった。せっかく愛之助、オリザという大御所が来てくれたのに「いらない!」などという市長。今後どうなるのか大勢の外部の豊岡Fanは見守っている。

丹波国 国府.総社.国分寺.一宮

丹波の国は京都嵐山から嵯峨野線に乗ってトンネル鉄橋、トンネル鉄橋を何回も繰り返してやっと広い番地に出た所である。大昔は丹波の国は丹後、但馬を含む地であったが、律令制の時代から三つの国に分かれた。丹波の国の国府は亀岡の盆地にあったが、その位置は特定されていない。しかし南丹市の屋賀に国府の小字がある。丹波国 国府

その周辺には「国府」という苗字の日とが多く住んでいるようだ。大欅のすぐわきにある安楽寺に入ってみたら山門再建の際の寄付名簿の石碑があった。国府さんが大変多いことに気が付いた。このあたりが国府の位置だったのだろう。

総社 宗神社
国府さん宅を少し歩き、坂の手前にに「宗神社」がある。どこにも総社の記載はないが、宗神社は総社に通じろ所がある。まあちょっと根拠は弱いが、一応ここを総社ということにしておこう。

国府の小字は南丹市屋賀にあるがここは亀岡市との境界辺りである。近くには大きいため池がいくつもあり農業に適した地にすべく人々が苦労したことがわかる。近くに牧場がいくつもあるので匂いはちょっと異なるが、大和盆地に似た景観である。ちょうど蓮が咲いておりお釈迦様の住む尊い地のように感じた。が変なものが蓮池を泳いできた。ヌートリア、お釈迦様に失礼だろう!あっちへ行けと追い払った。

丹波一宮 出雲大神宮
屋賀の国府付近からヌートリアの池から山裾に上がって行くと景色の良い場所に丹波の一宮の出雲大神宮がある。この辺りは出雲族が多く住む地で、ここから出雲大社に神さまは移って行かれたとの説がある。元出雲と呼ばれるのはそのためである。出雲大神宮については一宮巡りにアップしてある。http://kazmiwa.sakura.ne.jp/ichinomiya/058izumo-daijingu/izumo-daijingu.htm

丹波国分寺

丹波一宮から山裾の道を下って亀岡の市街に向かう途中に国分寺跡がある。ヤマ側には七福神を祭る寺など多くの寺社仏閣がある。信仰心の篤い地域だったことがわかる。国分寺は現在も小さな建物があるが無住らしく話を聞くことはできなかった。広い敷地には金堂や回廊の跡の看板が立てられている。しかし礎石は一部に集まっている。国分尼寺はどこにあるかわからなかった。

亀岡に来たのは3回目、駅前にはとんでもなく大きなドームがあった。サッカーJリーグの京都サンガの本拠地で京セラドームだ。昔はパープルサンガというチームがあったがその後継チームだがJ1だったかな? 京都嵐山までは保津川下りの舟がある。しかし大変な雨が降ったばかりで水量も多い。恐ろしいので電車で京都に戻る。

国府寺跡 

賀曽利さんから
「千代川の案内図」を送りますね。
10番の国府寺跡の「国府寺」は、
丹波国府の国衙跡だそうです。・・・・・ここには行かなかった。残念!

甲斐国府、総社、国分寺、小城

甲州の国府は甲府だろうと思うが、和名抄には「甲斐国府在八代郡」とあり、現在の笛吹市辺りだったようだ。
甲州は内陸にあるように見えるが旧国は「東海道」に属していた。富士川を下って行けば東海道につながる。
東海道をメインに考えれば甲府よりも八代郡の方が重要視されたのは当然だろう。

甲斐の総社 甲斐奈神社(春日居)

現在国府と名がつく場所は春日居国府と御坂町国衙(こくが)である。昔の山梨県知事が春日居の甲斐奈神社が国府であると断定する石碑を立てているが、ちょっと身びいきすぎる。春日居に国府があったかも知れないが、ここの地形を見れば笛吹川の氾濫原であり国府を長期間維持することは難しい。

賀曽利さんから

一度アップしたら賀曽利さんから「甲斐奈神社の写真がよくない」とクレームが来ました。私はこのぐらいでいいや!と思っていたのですが、大先達の仰せなので頂いた写真を入れておきます。

ということで、春日居国府は水害のない橋立総社のあたりの扇状地の上に引っ越したのだろう。その時期は聖武天皇が全国に国分寺を作り以前の事だ。橋立にある甲斐奈神社が総社を名乗っているが、その場所に国府もあったのだろう。次の地図で見る通りかなり狭い範囲に遺構が見つかっている。
国衙と総社

国分寺の遺構は見つかっているが国府の遺構はまだ出ていない。しかし国衙と称される場所は甲州二宮美和神社のそばにある。甲斐奈神社の宮司は、国衙から国司が毎日出仕したという。昔の人はこれぐらいの距離歩くのは苦もなかっただろうが、私には結構疲れる距離だ。二宮は美和神社、大和の大神(おおみわ)神社を勧請したもので、私は何回も訪れたが国衙が近くにあることは知らなかった。まず二宮の写真!

続いて国衙の写真 隣は経塚古墳

総社 甲斐奈神社 

国分寺 

高速道路の一宮ICの下の方、国道20号線の間に国分寺遺跡がある。もともと後継の国分寺があったが、意向を保存するために移転した。広い敷地は遺跡公園として整備されている。遺跡から出た瓦を石碑にしている

国分尼寺

総社から扇状地を上の方に登った国道20号線沿いに国分尼寺がある。こちらも礎石が残されているが、国分寺ほど整備は整っていない。しかし広大な敷地だったことは感じ取れる。尼寺の後継寺はのこっていない。

この国分寺を中心にした地域が昔の国府だろうと想像できる。そこから少し下がったところに甲州一宮浅間(あさま)神社がある。かなり狭い範囲に一宮、二宮、総社、国分寺が集まっていたようだ。

甲斐一宮

昔私は一宮の桃農家の手伝いをしていた。小城という場所だ。私は前には古城ではないかと思っていたが、本日歩いてみて壮大な城のような国衙に対して小さな郡衙ではないかと思うようになってきた。小城には律令時代には軍団がおかれていた。その話は桃農家で地元の歴史に詳しい中山嘉太郎さんのお父さんから私が聞いた。

久々に中山家に寄った。中山嘉太郎さんは植村直己冒険賞を受賞した冒険家で今は桃農家兼薬剤師。今宇宙ステーションにいる星出さんの親戚だ。お母さんは、甥っ子の星出さんが「いま山梨の上を飛んでいるよ」って電話くれるですよ。と嬉しそうに話してくれた。嘉太郎さんの話だと「山梨じゃないよメキシコの上って言っていたよ」というがともかく大物が出る一族はみんなすごいと感動した一日だった。

越後国分寺、国府、総社

昔は日本海側に巨大な高志の国があった。律令制の時代になるときに分割されて越前、越中、加賀、能登、越後の国に分けられた。スサノオ神が退治した八岐大蛇は高志からやってきたとある。神さまでなければ退治できなかった強国だったようだ。国府
越後の国府の位置は確定していないが上越市に国府という地名が残っている。この場所へ行ったのは一宮巡りで居多神社に行った時についでに寄ったので詳しくはわからない。国府1丁目には本願寺国府別院がある。この地が国府跡かどうかはわからないが写真を載せておく。この辺りは鎌倉政府の迫害にあった親鸞聖人が流された場所で妻を得た場所でもある。このたらに近い居多神社や五智国分寺は親鸞との関係が深い。本願寺別院が国府跡に立っている可能性も大きい。

総社 府中八幡宮

直江津駅からほど近いショッピングセンターの北側に府中八幡宮がある。居多神社の帰りに寄ることはできたのだが、親鸞さんと居多神社について考えることが精一杯で多りすぎてしまった。残念! 越後の総社の写真も賀曽利さんから提供を受けた。

国分寺 国分尼寺
現在ある国分寺は「五智国分寺」と呼ばれている。この国分寺は元の国分寺の後継寺であるが、上杉謙信によってここに移転したと記録されている。しかし元の国分寺の跡がどこであるかは書かれていない。もともと高田城の近くに国府があったとされていることから、国分寺、総社もそちらにあったかもしれない。しかし確たる証拠はないのでここを越後の国分寺とする。国分尼寺は不明。

越後一宮 居多神社 
本来の目的は越後一宮の居多神社にお参りすることだった。なのでおまけに入れておきます。越後の一宮はここと弥彦神社です。弥彦神社に行き佐渡の一宮に回ってからこの居多神社にやってきたので、国府、国分寺はほんのついででした。賀曽利さんの助けで今ブログができました。

丹後国 国府総社? 国分寺

丹後国はもともと丹波国の一部だったが和銅6年(713年)に分国されて丹波後国になり、元の丹波国は丹波前国になった。しかし呼びにくいので丹後国、丹波国になったという。前後にならなかったのは丹波国がもともとの国だったことを主張したかったのかもしれない。

古くは日本海側の方が表玄関だったので丹後の国の方に多くの集落があった。さらに丹後には天橋立という観光地があり大勢の人がやってきた。
さらに伊勢の天照大神もこの地にしばらくおられた(?)という。
ここから伊勢にお移りになったのでこの地を「元伊勢」とも言う。天照大神が伊勢にお移りになった後500年後に豊受大神もここから伊勢外宮にお移りになった。と伊勢神宮にも書いてあった。

国府 総社
国府の位置についてはまったくわからない。籠(この)神社の付近に府中という地名が残っていることもあり、付近に府中の遺構があるかもしれないがしばしば大津波に襲われているので発掘は難しい。(津波に続く)

賀曽利さんから
この投稿を見て賀曽利さんから国府の写真をいただいた。飯役神社は国司が使った印=印鎰(いんやく)から出た名前らしい。私もこの前を通ったはずだが、写真も撮っていない。さすがトコトン探索の賀曽利さんだ!

(前からの続き)津波の記録は籠神社の奥にある眞名井神社の鳥居脇の「波堰地蔵」の碑で分かる。碑のある場所は海抜50m、ここまで津波が上ったのだ。
総社は国府の近くにあったはずなので、丹後一宮の籠神社であるとの説もある。ということで、丹後国の国府位置不明(上の賀曽利写真では飯役神社:上の地図では国分尼寺跡?の場所)、総社は一宮の籠神社と言うことにしておく。

丹後の国分寺 国分尼寺
天橋立の内海である阿蘇海(与謝の海)の湖岸に近い高台に現在の国分寺がある。その前面の草原に礎石が規則的に並んでいる場所が元国分寺の跡である。現国分寺の隣に資料館があるが、私が訪れた時は休館だった。ネットで検索すると、私が訪れた後にだいぶ整備がなされ案内板も整備されているようだ。国分尼寺(法花寺)の位置は近くの中野遺跡かと言われたが確証はないようだ。


天橋立

雪舟の天橋立図(国宝)Wikipediaから  国分寺が描かれ五重塔が見える。創立時は七重の塔だったはずだ。

上野国府 総社 国分寺 尼寺

上野国は「うえの」国ではなく「こうづけ」国と読む。前回の下野は「しもつけ」で、もともとは両方合わせて毛野国だった。毛の国という名前は「両毛線」「上毛新聞」などに残るがこの地方を毛州ということはない。上野国は上州、下野国は野州である。
上野国は親王任国(天皇の子が太守)であるために次官の上野介が最高の官位であった。この地には古くから多くの古墳が残り、律令時代の後も上野国は重要な国で、上野介の名前は権威があった。
私は榛名山の山麓からの眺めが気に入り30年ほど前に上野国に移住すべく土地を確保し週末農家もどきをしていた。しかし高齢になり移住はあきらめた。長年の上野国通いの間に多くの友人もでき、今回は地元のKOさんご夫妻に案内していただいた。

上野国府
国府の位置はおおよそ分かっている。しかし「ここだ!」と断定できる発掘はまだない。小さな宮鍋神社の境内に国庁の案内板がある。詳しく説明してくれる資料館が宝塔(ほうとう)山古墳と蛇穴(じゃけつ)山古墳との間にある。この地には総社古墳群(6-7世紀)があり東山道を通して畿内と多くの交流があったことがわかる。

上野国総社
宮鍋神社の南に現在の総社神社がある。国庁のそばに国司が祀る総社が作られていた。この地域の神社を集めてある。有力な六社を集めた六所神社が多いが、ここでは九九社とあり数多くの神社を勧請している。ちなみに上野国一宮ははるか西にある貫前神社で、全国の一宮と一緒に祀られている。

国分寺 国分尼寺

2万5千分の1の地形図に土地利用を示した地図である。茶色は畑地、水の流れは用水路である。火山灰の土地なので水路は重要だった。国分寺は整備され版築(はんちく)の塀も復元されているが、関越高速道路をはさんだ国分尼寺は石柱が立つだけでまったくの畑。

この七重の塔は国分寺わきにある資料館のなかに置かれている。どの国分寺にも七重の塔が作られたが今残っているものはない。

ところで上の関越道の写真。ここは土手ではなく橋になっている。たぶんこの辺りには遺構が埋もれているに違いない。将来発掘作業ができるようにと関越高速道路を持ち上げて地表での作業はできるようになっているそうだ。

さすが文化を重んじる上野国、前橋市と高速道路公団。ちょっとごますりかな。

下野 国府 惣社 国分寺 国分尼寺 薬師寺

下野(しもつけ)国は大和の政権の最北端にあり上野(こうずけ)とともに大国であった。伴善男や菅原道真もここで勤めていたし、道鏡が晩年過ごしたのも下野であった。大国にふさわしい国府があったこともわかっている。また惣社は大神神社で、国分寺、国分尼寺も発掘され多くの遺構遺跡は立派な資料館で保存されている。
下野国が繫栄したのは東山道の要衝であったことだ。松尾芭蕉は昔の「歌枕」の地を訪ねる「奥の細道」の旅をした。江戸を発って最初の目的地は下野国の「けぶり立つ室の八嶋」だった。室の八嶋は惣社である大神神社境内にある。私はもう30年も前に奥の細道走り旅をした。芭蕉は3日かけて到着したが私は1日で小山、翌朝早くに室の八嶋に到着した後日光まで走った。忍者芭蕉に勝った!その後も大神(大三輪)神社巡りで数回この地を訪れている。
下野国庁跡
今回は池袋から小金井まで乗り換えなしでやってきた。レンタサイクルで国府、国分寺などワンセットプラス薬師寺跡まで走った。薬師寺跡でとてつもない大雨、大急ぎで食堂に入りやむのを待った。まず国府の中心である国庁跡。資料館は地元民以外入館できない。私は何回も来ているので名誉地元民!で入れてもらった。今週訪れたのは一人だけだった。写真は4年前に奥さんと一緒に来た時撮ったもの。

下野惣社 大神(おおみわ)神社
国府の北側に3キロほど行った場所にある。昔は走ったが今は自転車で20分。本日は煙もたっていなかった。芭蕉様の句碑がいくつも立っている。歌人の歌も多い。惣社は六所神社が多いがここでは八つ(案内板にあるとおり)なので八嶋だ。

国分寺
昔壬生街道を走ってきたら国分寺史跡入り口の看板の指し示すところにケバケバシホテルがあった。教育上悪いんじゃないの、と思ったが今もちゃんと存在していた。国分寺の整備はすばらしい。しかし回廊などの復元はなされていない。それはポリシーをもっての事らしい。私も下手な建築物は作らない方がいいと思うが、何となく殺風景だ。

公園内には古墳がいくつかあり紫式部の墓まである。ちょっとやりすぎだけど。

国分尼寺
ほとんど隣に国分尼寺がある。こちらにはリニューアルされた資料館がある。子供たちが団体で見学していた。ケバイホテルの入り口から入ってきたのかな?

昔は下野は下毛野と書いた。上野も上毛野と書いた。今両方の地を結ぶ鉄道は両毛線という。上野は上州、下野は野州といい、どちらも毛州とは言わない。
資料館で見た埴輪。

薬師寺跡まで行ったが大雨で急いで逃げ帰ったので写真なし。

下野薬師寺跡 現薬師寺
写真なしと書いたら直ちに賀曽利さんから、下野薬師寺は大変重要ですとのメールと写真が送られてきました。その通りですから現在ある薬師寺(安国寺)の写真も一緒に掲載しておきます。夕暮れの史跡、いい写真だね。