豊前国府はみやこ町にあった


豊前国は今の大分県の一部と福岡県の一部である。国府は京都郡みやこ町にあった。ここには宇佐八幡から大宰府に到る道があり、古代の要衝であった。みやこ町は新しい名前であるが京都(みやこ)郡は古代の文書に出てくる名前で、古代から都との交流が深かったことが知れる。

国府

地図・交通

豊前国総社

惣社は八幡宮で、国府跡公園の隣にある。今は田舎の鎮守という感じ。狛犬がかわいらしい。

豊前国分寺

三重塔をもつ立派な国分寺がある。古代の国分寺は戦火により消滅したが小倉藩の支援を受け徐々に復興し、明治期に三重塔が完成し寺の再建は果たされた。境内には巨大な弘法大師像があった。唐から密かに戻った弘法大師・空海は大宰府に身をひそめるがその前にこの寺に隠れていたらしい?

豊前国分尼寺跡
歩き疲れて国分尼寺まで到達できなかった。なので写真はみやこ町の文化財マップから借用。いずれ入れかえます。・・・すぐに賀曽利さんから写真が送られてきました。入れ替えました。

北九州空港から朽網(くさみ)へ出て、列車で行橋から新豊津に行った。川沿いの駅には何もなかった。歩くのはなかなかきつそうだがほかに手段はない。坂を上っていくと古い感じの良い街並みがあった。豊津は豊の国の川湊だったのだろう。豊前国は九州の島だが瀬戸内海に面しており、都との交流は頻繁だったのだろう。国府跡と国分寺跡の間には豊前一宮の宇佐八幡から大宰府に向かう道路が通っていた。交通の便は悪いが、見どころが多い豊前国府だった。2021年10月24日訪問

日向国府は西都にあった!


日向の国は今の宮崎県付近である。神武天皇を祭る宮崎神宮が宮崎市の中心と思われがちだが古代の中心は西都市にあったようだ。西都市の高台の上には日本最大級の西都原古墳群がある。この古墳群は大和朝廷の支配の後に作られたもの。ということは大和からの逆輸入ということである。

日向国府
西都市のランドマークである都萬(つま)神社脇の交差点に「お舟塚」がある。ニニギ命(天孫)が高天原から降臨した際に乗ってきた船があった。その塚から少し稚児が池の方に登ると広い敷地がある。発掘調査が進み国府の構成がわかるようになっている。現在はまだ整備が進んでいないのでただの原っぱに見える。

都萬神社
西都の街の北方に「妻」という地名がある。都萬(つま)神社からでた名前である。天孫ニニギ命の妻となったコノハナサクヤ姫がこの神社の祭神である。ちなみに天孫ニニギ命は霧島神社の祭神になっている。
日向二宮で日向国の総社ともいわれていた。格式ある延喜式内社であるが「総社」の表記はどこにもない。日向国府にこの神社は欠かせない存在だったようだ。

総社 三宅神社
総社を名乗っているのはこちらの三宅神社である。ヤクルト2軍のキャンプ地であるグランド脇にある小さな神社である。台地の上にあるので町を見下ろす大変いい立地である。

日向国分寺
国分寺跡の位置もわかっており報告書も出されている。のちの世になって国分寺が荒れたのを見かねて「木喰上人」が木像の五智如来を作った。現在は4体しかないが1体は九州博物館に展示中だとか。

日向国分尼寺
国分尼寺跡は県立妻高校の構内にあり、発掘も進んでいる。今コロナ禍で構内に入れなかったので石碑、説明の写真を撮れなかった。賀曽利さん持ってたら借用させてください。写真は学校前と急坂「尼寺坂」のみ。

印鑰神社
印は国司の印璽、鑰(にゃく、やく)は税を納めた建物の鍵である。大事な印と鍵を象徴する印鑰神社は重要な役所だった。信濃国では印鑰神社を総社としていた。

博物館には印璽があった。これま国司の印ではなく郡司の印であるが、実に大事なものであった。なので神社に納められたのだろう。

日向国は国府、総社2社、国分寺、国分尼寺、印鑰神社の跡が全部残っている稀有な例だろう。さらに台上には1000基ほどの古墳があり、その中には陵墓参考地もある。

一体どうなっているのだというほど楽しい場所だった。おまけに古墳写真を入れておみます。

鬼の窟古墳!

信濃国分寺、松本惣社を追加

信濃国は昔「科野」とかいた。今の長野県であるがこの国(県)には核になる場所がいくつもある。信州大学は本部が松本にあり長野、上田、伊那の各地域にキャンパスは分散している。さらに諏訪には信濃一宮の諏訪神社がある。中心がどこだかわからない。「信濃の国」の歌でまとめなければならない国、地域なのだろう。

律令国の頃、科野国府は上田にあったらしい。その後松本の惣社(伊和神社)あたりに移った。現在上田には総社の科野大神宮がありその近くに国分寺、国分尼寺跡が発掘調査されている。松本の総社近くには国分寺はないので、私は信濃国府は上田でいいかな、と思っている。しかし賀曽利さんからは「松本ですよ!」と言って写真を送ってくれるだろうと期待して、今回は松本行はやめた。

国府 総社

上田駅に近い段丘崖の上の高台に総社・科野(しなの)大神宮がある。2021年7月18日、とても暑い日だったので坂を上るのに大汗をかいた。大宮社であるが境内はそれほど大きなものではない。

国府の発掘がなされていないのでもともとの規模はわからない。日本の神社は鳥居から拝殿まで直っすぐではなく、ちょっと傾いているのが普通だ。鳥居前から写真を撮ると拝殿がちょっと首をかしげておりカワイイ。境内にはシナノの木ではなくケヤキの巨木がある。

松本にある惣社 伊和神社(ダミー写真 賀曽利さんお願い!)

早速賀曽利さんから松本の国府町交差点と総社伊和神社の写真を送ってもらいました。お願いすればどの場所でも写真を送ってくれる! すごい。感謝!ダミー写真と入れ替えました。

松本の国府(こくぶ)、惣社(そうざ)
機会があって松本に行った。賀曽利さんに教わった松本の国府と総社に行ってみた。賀曽利さんが松本駅前の国府町については首をかしげていたが、その通りで昭和になってからつけた名前だと書いてあった。地名だけから国府を推定するのは気をつけなければいけない。

惣社
駅から美ヶ原へ行く道の途中に「惣社」という地名がある。「そうざ」と読むそうだ。総社は国府の中にあることが多い。上田から移った第2次信濃国府はこの近くにあったようだが未発掘。確定はされていない。この惣社は伊和神社であるが、その謂れが書いてあった。美作一宮も「伊和神社」だが同じいわれがあるのだろうか?
もとは印鑰(いんやく)神社であった。印は国司の持つ印璽、鑰は蔵のカギだという。その印→伊 になり 鑰を間違えて輪と記して「伊輪神社」となりさらに「伊和神社」となったと説明されているけど、あまり根拠はなさそう。

ということで、信濃国府の追加です。ところで「印鑰」って難しい字だし読みもいろいろあるようです。珍しい名字としても知られている。

国分寺

信濃国分寺という駅がある。線路をまたいで旧国分寺跡が発掘調査されている。道路の反対側の高台に現国分寺がある。なかなか由緒ありそうな寺で、三重塔もある。裏手には蓮池があってちょうど開花時期で見物客があふれていた。

国分寺跡、国分尼寺跡
暑いので上田駅から昔の信越線で一駅行った。電車の窓から国分寺遺構が見える。遺構は線路をまたいで広がっている。現在の国分寺側に国分僧寺があり地下道で越えた千曲川側に国分尼寺があった。両方の寺がきちんと発掘されている場所は少ない。ここは偉い。

国分寺跡

 

国分寺歴史資料館、まだ朝早かったので空いてなかった。

国分尼寺跡

資料館前にバス停があったが日曜日なので本数は少ない。上田駅に向かって北国街道を歩いた。駅までは3キロもあり暑い暑い! まもなくオリンピックが始まる。こんなに暑くて大丈夫なのか。コロナも感染者が増えてきた。こっちも大丈夫なの?上田駅前で唐風の狛犬が出迎えてくれたが、なんで唐風か?ちょっと違和感あり。

 

備中国府は総社市にあった


総社町や総社という地名は各所にあるが「総社市」は岡山県のここだけである。近くには作山古墳、造山古墳など日本有数の大きさをもつ前方後円墳がある。古代の吉備国の頃から栄えていた場所なのだろう。
国府の場所の発掘はされていないが、東総社駅近くの「国府」という場所付近が想定され、国府跡の碑がたてられている。

国府

総社宮
備中一宮の奥に温羅(うら)の釜殿にむかう長い回廊がある。この総社の回廊は吉備津神社とは違ってまっすぐに伸びて拝殿につながっているが、造りはほぼ同じ。印象的な感じである。境内には多くの神さまが集まっている。神楽面は種々の神さまのお顔が飾られている。神さま好きの人には嬉しいだろ。

国分寺 国分寺跡

旅のパンフレットには吉備の国分寺としてよく出てくる。広い田んぼの中の台地の上に国分寺の五重塔が眺められる。いつ行っても大勢のカメラマンで賑わっている。私の知っている国分寺の五重塔としては一番立派である。古代国分寺は現国分寺の敷地続きに広がる田んぼの中にある。発掘資料は資料館で見ることができる。

国分尼寺跡

国分寺の前を自転車専用道路がとおっている。古代吉備の主要な古墳、寺社を見て回られるようになっている。2008年には私も自転車で回り、国分寺隣のこうもり穴古墳を通って国分尼寺跡に行った。今回は車だったのでこうもり穴をパスして尼寺跡にいく。尼寺跡は前よりも整備されていた。

造山古墳
自転車道路沿いにある造山古墳。日本第4位の巨大な前方後円墳。大和のものと違い、宮内庁の管理ではないので誰でも登れるし、副葬品は全部盗掘されている。2008年

吉備の一宮 (一宮巡りのページを参照してください)

備前一宮 吉備津彦神社

備中一宮 吉備津神社

備後一宮 吉備津神社

 

備後国 JR府中駅がある

府中 国府のあった場所

府中市は広島と東京にの2か所にある。同じ名前は使わないのが原則だが、1954年に同時に成立してしまったので例外的に現在に至っている。さらに広島県には府中市と府中町がある。いずれも古代国府があった場所だ。現在の広島県は安芸の国、備後の国が合わさってできたので2か所の府中が存在するのだ。広島県の府中市は福山からJR福塩線で行く。東京の府中市にJR府中駅は存在しない。
国府
国府は府中にあったと考えられているがまだ確定した場所は特定されていない。候補になる場所、金龍寺地区とツジ地区の2か所を歩いてみた。いずれもJR府中駅の北側500mほどの場所なので、惣社と合わせて歩いてまわることができる。

總社(総社)小野神社
ツジ地区の背後の丘の上にある小野神社が備後国総社とされている。登るのが大変で、急傾斜の石段の上に拝殿社殿がある。府中の町を見渡すのには絶好の場所である。

備後国分寺
神辺駅から井原鉄道で御領という駅から歩くことができる。今回は地元の友人に新市駅から車で送ってもらった。感謝!国分寺跡には立派な国分寺があり、法灯を引き継いでいる。国分尼寺は見つからなかった!

備後一宮 吉備津神社(リンクあり)
備後の国はもとは吉備国で備前、備中、備後に分かれた。それぞれの国に吉備津彦を祀った吉備津神社が置かれている。青いところクリックしてください

備後一宮 スサノオ神社(クリックしてください)
備後の国にはもう一つ一宮がある。スサノオ神社がそれである。新装なった朱色の吉備津神社と比べるとだいぶ地味に見えるが、吉備津神社より古い歴史があるようだ。スサノオは出雲の神さまである。

府中の先は
JR府中までは電化されているが、その先は非電化区間である。上下(じょうげ)という駅は中国山地の分水嶺にある。上下駅は峠にある。ここから先は江の川水系に入り三次を通って島根県の江津に行く。以前は江津に行く三江線の鉄道があったが廃止になった。福山、府中を通って鉄道で江津までは行くことができなくなくなった。
古代はこの水系を通って出雲と吉備の交流があったのだろう。

安芸国府 多祁理宮(埃宮)かもしれない


古事記(712年成立)によれば、初代神武天皇は高千穂を出て東征の途中、安芸国多祁理宮(埃宮)(たけりのみや・えのみや)で7年間過ごし、さらに備前の高島宮で数年すごし大和に向かった。多祁理宮(古事記){埃宮(日本書紀)}その場所は府中町の多家神社である。その後ここに国府がおかれ、総社がつくられた。しかし安芸の国分寺とはずいぶん離れている。国分寺のそばの西条の町は条里に作られた国府があったとする説もある。

国府 多祁理宮 
古代山陽道は奥深く湾入した海岸を通っていた。今の向洋駅の前の鹿籠(こごもり)神社のあたりに港があった。「こごもり」は国府守(こうもり)が転じたものだ。鹿籠神社(移転後)の写真を入れておきます。

総社 田所明神社
田所氏は国府の高級官僚で、のちにこの地に広大な勢力を持った。のちに国府跡に田所神社が作られ、安芸の国の総社とされた。現在総社会館などが立っている。

国分寺 国分尼寺
国分寺は府中町からはるか離れた東広島市の西条にある。最初の国府はこの地にあったとする説もあり、西条は国府の条理の跡ではないかと考えられている。しかし発掘はなされていない。

国分寺は西条駅の北側に広がっていた。現在は公園になっており、現国分寺が法灯を継いでいる。西条は賀茂鶴などの酒どころ、国の醸造研究所もあるという。私はこの近くに小学校まで住んでいたが、酒蔵の街ということは知らなかった。さらに国分寺があったことなど知る由もなかった。

ところで国分尼寺については調べる時間はなかった。たぶんまだ発掘されていないのだろう

旧乃美尾村
私は小学校5年生まで黒瀬町の乃美尾小学校で過ごしたので、懐かしい故郷である。と言ってももう知り合いも親戚も誰もいない。西条の国分寺からはちょっと遠いが久しぶりに訪れて写真を撮ってきた。おまけ写真!

播磨国印鑰大神宮は国府?


播磨国は現在の兵庫県の大部分だった。国府、国分寺は姫路市にあった。国分寺は御国野町(みくにのちょう)の御着駅の近く、旧山陽道に沿って広がっていた。そこには印鑰大神宮という小さな宮があった。印鑰(いんやく)というのは国司の印璽をつかさどる役所のことである。この近くに国府があったのではないか。

国府 総社

姫路城の近くの播磨国総社付近に国府寺町がある。ここも国府候補地であり、郵便局の建設時に発掘がなされ、ほぼ国庁と考えられている。しかし遺構は保存されていないので写真はこの石柱のみ。私は、もともと国府は国分寺付近にあり、その後姫路城に近い総社隣の郵便局下に移転したのではないか、と素人考えをしている。

御着の印鑰大神宮のそばに埋蔵文化センターがあり、国分寺、尼寺の発掘をしている。国分寺付近で国府跡を探しているのかもしれない。これも素人考え!

印鑰大神宮

社殿には印鑰大神宮の表示はなく、幟旗に書いてるだけ。拝殿内には絵馬多数!

国分寺 国分尼寺
御着駅のすぐ近くに国分寺跡が整備されている。その一角には法灯を守る現国分寺がある。門は閉ざされているので、話は聞けなかった。説明版によると塔は七重の塔、現国分寺の本堂は元の国分寺の金堂の上に立っている。敷地端には築地塀が復元されている。その向こうを山陽本線、新幹線が通るのが見える。

国分尼寺は石柱と説明版のみ。発掘時の写真は埋蔵文化センターのHPから借用

播磨国一宮 伊和神社
一宮の伊和神社は揖保川の上流部の宍粟市にある。
上の青くなったところをクリックしてください。
 

親切な地元民
御着駅を降りて案内板を見たら「印鑰神社」との名前があった。事前の調べではこの神社について何も知識がなかった。「印鑰」(いんやく、いんにゃく)は国司の印璽を預かる役所のことで、国府の中にあった。先日行った能登国ではその場所が能登国府とされていたので、ここ播磨国でも印鑰神社が国府内にあったと、私は考えた。

さっそくその神社を目指して旧山陽道を歩いたのだが、近くにいるはずなのに見つからない。地元の方に聞いたら「知らないけど、聞いてみるよ」とのこと。「わかったわ、車を持て来るから待ってて!」という。車で15分ほど走った場所には八幡様はあったが「印鑰神社」ではない。親切はありがたいほど身に染みたが、残念。

元に戻ってGoogle Map で探すが入り口の路地が見つからない。最後に民家の敷地を通り越したら山裾にその神社はあった。幟旗を見えた時、歩数計はすでに1万五千歩にもなっていた。この印鑰大神宮が国府と関係があるのか、御着駅前の図書館で聞いてみたが何の資料もなし。

皆さんとても親切に接してくれたのだが、成果はなかった。国府の権威の賀曽利さんに聞いてみよう!

播磨国伊和神社 (sakura.ne.jp)

三河国 国分尼寺がすばらしい


国府 総社

愛知県には尾張、三河の二つの国府があった。尾張は総社国府宮だけが立派だが三河には総社、国庁、国分寺、国分尼寺のワンセットが狭い範囲に集まっていた。東海道の御油、赤坂宿から近い場所に名鉄「国府」(こう)駅があった。こから数百メートルいった白鳥台地の上に総社(旧村社)があり、そのわきに鎮守の森がある。その森が国庁跡として発掘されている。国府は台地の上全体に広がっていたようだ。

国分寺
総社国庁の森の横をとおる姫街道の先に八幡宮があり並んで国分寺遺跡と現在の国分寺がある。国分寺にはふつうの七重の塔ではなく五重の塔があったらしい

国分尼寺
国分尼寺の前に「三河国分尼寺跡、天平の里資料館」がある。その資料に全国の国分寺国分尼寺の分布があった。国分尼寺の跡がない、あるいは見つかっていない場所は多いようだ。現在の三河国では国分尼寺の方がメインである。

八幡宮
国分寺の総本山、東大寺を守る神さま手向山八幡宮がある。同じように三河国分寺をまもる八幡宮が国分寺の隣にある。鳥居前には国分寺にあった五重塔を模した石の五重塔が飾っておある。神さまと仏さまは親しく共存していた。

コンパクトに国府、総社、国分僧寺、国分尼寺がそろっている場所はあまりない。小さいながらも資料館があり、国府巡りの場所としては最高である。三河では一番大きな船山古墳もあり、旧東海道御油の松並木も近くにあり、散歩道としてはすばらしい。

尾張国府と総社国府宮


尾張国は大国であった。一宮の真清田神社、総社の国府宮は大変立派なものである。しかし国府、国分寺に関してはあまり力が入っていない。愛知県はいまも大県である。もう少し発掘、復元などに力を入れてほしいものだ。

国府・国衙
国府の位置は分からない。国府宮の駅近くに「国衙(こくが)」跡があるが、これは10世紀の頃に大江匡衡が国司として赴任した館である。国府がこの辺りにあったと推測されている。しかし私は、稲沢駅の東側に下津(おりづ)町東国府、西国府という地名があることを見つけた。地元の人に聞くと「国府山阿弥陀寺の東と西だよ!」というが、国府があったので国府山と名付けたと思っている。

総社 国府宮
名鉄に国府宮駅があり、線路に沿って長い参道が伸びている。三本の鳥居をくぐって楼門に入る。儺追(なおい)神事で大鏡餅は楼門を通るギリギリの大きさだそうだ。儺追神事は「はだか祭」として知られている。檜皮葺のすばらしい社殿の前では早めの七五三のお参りをする人がいた。

国分寺
矢合(やわせ)観音行のバス終点が国分寺の前である。本数は少ないので私は市役所から歩いた。新幹線をくぐるとすぐに現在の国分寺が見える。この国分寺は古代の国分寺とは直接の関係はない。国分寺跡は鈴置(すずおき)神社の先にあるが、発掘の途中?で何の整備もされていない。雨のあとだったので塔の跡へいくのは大変だった。そこには礎石が一つ、石碑が一つだけ。草刈りもしてない。

国分尼寺
法華滅罪之寺というのが正式の名前であり、法華寺、法花寺という名前が残っていることも多い。国分尼寺跡は「法花寺」という地名の場所にあったことが想像される。現在の法華寺が関係あるかもしれない。

9月10日、東京は22℃と涼しかったが、名古屋は暑かった。稲沢市役所までバスで行き、その後は歩きだった。帰りのバスがなくて、珍しくやってきたタクシーに乗って国府宮まで戻った。だんだん自分の足に頼れなくなった!ちょっとだけ寂しいことだ。

陸奥多賀城総社国分寺国分尼寺


陸奥国は広い。7世紀以前に大和政権は白河の関の北側に住む人々を抑えてはいなかったのに勝手に「陸の奥」と呼称してだけである。律令制度になる8世紀初め陸奥国最前線は多賀城にあり、そこに鎮守府が置かれた。数百年かかって坂上田村麻呂によってまつろわぬ人々を征服して岩手県の胆沢城に進出した。陸奥の国府(鎮守府)は城と同意だった。

国府多賀城
仙台から4つ目に「国府多賀城」(2001年開業)というJRのえきがある。

壺の碑
多賀城の正面に「多賀城碑」壺の碑(いしぶみ)がある。松尾芭蕉は「おくの細道」でこの碑が西行の訪れた歌枕の地であると感激している。しかし本当の壺の碑(いしぶみ)は野辺地の近くにある「都母の碑」(日本中央の碑)である。芭蕉は知っていたが伊達藩が推奨する壺の碑をあえて歌枕の地としたのだ。碑には多賀城国府の位置(都などから)が記してある。

陸奥国総社
奏社との石碑があった(写真なし)多賀城政庁の東門の近くにその神社があった。鳥居前に陸奥国の延喜式内社の名前が並べられていた。それらの神社の総社なのだ。

アラハバキ神社
総社には延喜式内社が並べて書いてあったが、すぐ近くの「荒脛巾」神社の名前はない。しかしこの神社は東北では有名である。元は大和政権にまつろわぬ人々の間で信仰された「荒脛巾(あらはばき)神」を祀っていたが、今は足腰の痛みにご利益のあるローカルな神さまと言うことになっている。お参りの人はなにやら怪しいが足腰、子孫繁栄にはご利益があるとのことだった。この神さまは武蔵国一宮の氷川神社の摂社にもなっている。アキハバラと名前が似ているが関係はないようだ。

陸奥国 国分尼寺
多賀城国府からはだいぶ離れた仙台駅の近くに国分寺跡、国分尼寺跡があり、それぞれ法灯を引き継ぐ立派な寺が残っている。地下鉄東西線の薬師堂駅は国分寺と国分尼寺のちょうど真ん中にある。現在の寺と跡を国分尼寺から順に載せておきます。

陸奥国 国分寺

陸奥国は大国だっただけあってみるところも多かった。国府、国分寺と直接関係ないが、「壺のいしぶみ」「アラハバキ神社」を絡めて見るのは興味深い。さらに国府多賀城駅のすぐそばにある浮島神社は大和政権と関係深いが、今回載せる余地は無くなった。国府、国分寺を見て日帰りで東京に戻った。
1999年だったか?私は芭蕉を追う走り旅で8日間かけて深川芭蕉庵から多賀城の「壺のいしぶみ」まで走って来た。さらに本物の「都母(つぼ)の石ぶみ」まで6日かけて走った。新幹線はエライ。日帰りで往復できるのだから。

伊豆国分寺と三島大社

伊豆国の国府は三島にあった。三島駅南の楽寿園あたりで富士山からの湧き水が噴出している。こんなきれいな水の湧きだす町は珍しい。三島は富士山の賜物だ。

国府
国府が三島にあったことは確かだが,その位置は確認されていない。国府とか府中という地名もない。ところが三島大社の脇にある祓戸神社に「国司」の文字があった。国司は国庁から歩いて三島大社に参拝したとある。祓戸神社の前から鎌倉街道が国分寺に通じている。そのどこかに国庁があったのだろう

総社 三島大社
国司が参拝するのが総社である。伊豆国の国司は三島神社に参拝していたという。そのことは今ほど大きな神社ではなかったはずだ。神社が大きくなったのは鎌倉時代、源頼朝の庇護を受けたからだ。神社のどこにも総社の印はないが伊豆国一宮の三島神社が総社の役目を負っていたのではないか。平氏の厳島神社に対して源氏は大三島神社を奉じていた。「三島大社」とあるが明治の時代になって名乗ったもので、元は三島神社であった。

国分寺
三島大社の摂社の祓戸神社の前から鎌倉古道がとおっている。この古道にそって広小路のほうに行くと現在の国分寺がある。現国分寺の境内に七重の塔の礎石が発見された。国分尼寺については不明。

富士山と三島の街
富士山と三島の街の間には愛鷹山がある。しかし富士山の溶岩は愛鷹山と箱根山の間の狭い通路を通って三島の街に流れてきた。こんなに長い距離を流れたのは山梨県の富士吉田から猿橋に流れた溶岩に匹敵する。三島は富士山によってつくられた町と言ってもよいかも。

駿河国府中は駿府、片山廃寺と登呂遺跡

駿府(すんぷ)は駿河国府の略である。国府が県庁所在地にあるのは珍しい。律令時代以後も近世まで長く駿府又は府中と言われ、徳川政権初期は日本国の実質的な首都であった。明治維新により新政府に恭順の意を示すため駿府の象徴であった賤機(しずはた)山にちなみんで由緒ある駿河を静岡に改称したという。

駿河国国府
駿府城あたりに国府はあったが土地は改変されているので位置は確定されていない。発掘調査が行われているのは天守台で、国府跡はさらにその下に隠れているはずだ。現在の国分寺の近くに国府跡の表示があった。周辺を歩き回り地元の人に聞いてみても誰も知らなかった。
2023年に天守台の発掘現場を見に行った。駐車場の跡を掘り下げたら今川氏の館と慶長の天守台の石垣が出てきたそうだ。もしかするとその下に国府跡が見つかるかもと期待したが、今のところその気配はないようだ。発掘現場の写真を追加しておきます。

駿河国総社 神部神社
駿府城の近くに立派な神社がある。門の扁額には「當国総社富士新宮」と書いてある。中に入ってみると舞殿があり横長の大きな賽銭箱がある。よく見ると左右にそれぞれの神社の名前が書いてある。賽銭は一つでいいのか?? 拝殿も左右に二か所ある。向かって左側が富士新宮浅間神社とある。右側の表示は當国総社神部神社となっている。なんで二つの神社が一緒の社殿になっているのかわからない。敷地は広くていくらでも社殿は作れそうなのに。裏手の少彦名神社の近くから本殿を望むこともできるがそこへ登る石段も左右にひとつづつある。不思議なことだ。



総社内の神社
賎機山の末端には極彩色の多くの神社が集まっている。参道商店街をぬけるとまず大歳御祖神社、境内から浅間神社へ行くことは可能だが、私は正面鳥居に回った。八千戈神社わきから急な石段を昇った。

現在の国分寺、国分尼寺
総社の鳥居から少し行ったところに現在の国分寺がある。法灯を継いでいるというが、昔の国分寺の面影はまったくない。さらに長沼駅の先に国分尼寺の法灯を継いでいる菩提樹院がある。由比正雪の首塚があるという。周辺には涅槃像、五重塔があるが皆寺町から移動してきたものでお寺の団地のようだ。

国分寺跡 片山廃寺
国府からはかなり離れた場所に片山廃寺跡がある。ここに塔跡が出てきたので駿河国分寺跡の可能性が大きくなっている。東名高速道路の下に寺跡は広がっており、発掘もなされた。ここから登呂遺跡は近い。昔の人なら国府から馬や歩きで行くことはできたかな?

今回静岡駅前の駐輪場で電動自転車を借りて回った。相当に暑かったが足には負担はなかった。しかしスマホを使ってのレンタルには手間がかかった。年寄りにはスマホは難しい。以下は登呂遺跡。資料館はまたの機会に!

遠江国府八幡国分寺


都に近い湖(琵琶湖)があるのが近江国、遠くにあるのが遠江国である。今の時代浜名湖岸の中心街は浜松だが、昔奈良の時代には今の磐田市に国府があった。国府位置は確定していないが時代とともに移動した。最初の国庁は磐田駅南口にあったらしい。21年夏の暑い日、磐田駅の国府から市役所脇の国分寺を通り、旧東海道の見附宿の総社まで歩いた。往復5キロほどだが汗だくになった。30年前東海道遠足の時は正月、寒さに震えながら通った道だと思い出した。

国府(御殿遺跡)
磐田駅には写真のようなモニュメントがある。天平の時代をイメージしたものらしい。北口の大通りは「天平通り」とあった。防人は遠江よりも東の国から徴用された人々。遠江の住人は妻との別れもできないほど急にこの国府から九州へ旅立った。この遺跡の一部分に国府の建物、国衙があったようだ。

国府の鎮護神社
府八幡宮:どこにも総社との記述はないが「府」は国府を示している。宮司に聞くとここに国府があったという。八幡宮は国司の桜井王が勧請したものとの記述がある。道路を挟んだ市役所側に国分寺と国分尼寺が南北に並んでいた。場所的にはこの辺り(国府台)に国府があったようだ。

総社(平安時代以降)
淡海国玉神社:遠江にあるがなぜか淡海(近江)である。東海道の見附宿の見附学校の隣にある。総社にしては規模が小さい。しかし「はだか祭」では矢奈比売神社(見附天神)の神輿が淡海国玉神社へ渡御するし、「祇園祭」では天御子神社(三ノ宮)から神輿が渡御する重要な神社である。狛ウサギがいた。まだ新しい。

国分寺 国分尼寺

 

 

 

 

国分寺には七重の塔があった。その想像模型が磐田駅に展示されている。立派なものである。 上の写真は国分尼寺があった場所に建つ磐田高校、裏手に発掘跡がある。

 

遠江一宮(小國神社)
遠州森の石松のの故郷にあり、国府からは遠い。天竜浜名湖鉄道の森駅から4キロほど。暑い中歩いたことがある。今回は行かなかったが、写真を入れておきます。

遠江一宮:事任(ことのまま)八幡宮
東海道の宇津ノ谷峠(蔦の細道)に上がる手前にある。磐田からは遠い。なぜ一宮が二か所あるかのか??

 

佐渡国府総社能舞台

一時期越後国になったことがあるが、古くから佐渡は「国」であった。国府は国仲平野にあったが発掘はなされていない。しかし下国府付近に国衙があったと考えられている。下国府を流れる竹田川はまもなく国府川に合流し真野湾に流れる。私たちは直江津港から佐渡に渡った。

国府 (写真は中島明夫さん21年8月20日)
我が奥様はお能(仕舞)の稽古をしており、佐渡に能舞台が多くあることを知っていた。私は一宮巡りで、ともに興味のある場所として佐渡を訪れた。国府は二の次だったので写真はほとんどなかった。そこで佐渡でトキのお友達として働いている中島明夫さんに頼んだら、「トキを見るときの通り道です」と言って下国府遺跡の写真を送ってくれた。ありがとう。

総社 (これ以下は三輪の写真です)

総社は国府の近くにあったらしいが、現在の場所に移ったらしい。説明版が薄くて読めない!10数年前にこの神社で民俗学会の猿回し芸を見た覚えがある。この神社にも能舞台があったが、扉は閉まっていた。

国分寺
惣社の前をしばらく行くと国分寺遺跡がある。台地上には現在の国分寺がある。茅葺のいい感じの門、瑠璃堂がある。国分尼寺は不明。

五重塔と能舞台
佐渡には立派な神社や寺がある。それを支える経済力があったのだろう。それぞれ見どころを入れておきます。

佐渡一宮
佐渡の一宮は度津(わたつ)神社 小木の街から川をさかのぼった山中にある。詳しくは別稿の一宮巡りにある。

真野宮など
佐渡には多くの流人がいた。天皇の行在所は真野宮。いい神社、古墳など巡っていると日が暮れる。コロナが終息したらまた来なければいけない場所だなぁ

対馬和多都美島分寺


朝鮮半島からの文物の通り道として栄えた島で古くから人々は住んでいた。律令制度が敷かれた時には対馬国として西海道に属した。

国府 島分寺
国府は下県(しもあがた)郡に置かれたという。しかしその場所は正確には分かっていない。しかし明治の時代まで厳原町には対馬府中藩がおかれ、宗氏が対馬守であった。金石城から旧厳原町役場あたりに国府があったと想像される。2012年私が訪れた時には金石城の発掘は終わっていたが、その下に埋もれているであろう国衙、島分寺の跡は見つかっていなかった。

最初は対馬国であったが、国分寺が建立された8世紀には対馬嶋と表記されており、国分寺ではなく「嶋分寺」だったと言われている。現在国分寺は存在するが、古い嶋分寺は金石城の下に埋まっている。

対馬島分寺(対馬国分寺)

大國魂神社
国府、国分寺があったことは分かっているが総社についての記述はない。東京府中には大國魂神社があり、総社とされている。他にも大國魂神社が総社になっている旧国がある。私は対馬にも大國魂神社があることを見つけ、これが総社ではないかと思っているのだが、その神社の場所は対馬の一番北の豊浦漁港にある。国府からこんなに離れたところにある神社が国司がいつも参る神社であるはずはない。なのでここに乗せたが、対馬国総社ではないだろう。一応写真を入れておきます。

対馬一宮? 和多都美神社
長い対馬島の中ほどの浅茅湾の近くに「わたつみ神社」がある。厳原から歩くのはきついのでレンタカーを借りた。ナビで調べると和多都美神社に連れていかれた。海の中に鳥居が並んでいるすばらし神社であり感動していたら観光バスが2台やって来て大勢が参拝?している。観光バスの運転手さんに聞くと韓国からの客だそうだ。海の中にある鳥居が釜山に向かっているのだという。

対馬一宮 海神神社
大勢の人がいるが、和多都美神社のどこにも対馬一宮とは書いてなかった。運転手に聞くと海神神社が近くにあるという。山の上なので観光バスは入れないとのこと。海神神社が山の上にあるというのはちょっと解せないが、こちらが対馬一宮と書いてあるのでだから間違いないだろう。

アマテル神社 梅林寺
百済の聖明王から仏像と経典が初めて日本に伝えられたのが538年であるが、その前に対馬の船越でいったん建物を作って仏像を安置してからヤマト向かった。ということで初めて作られた寺は対馬の梅林寺ということになっている。文化交流にとって対馬は大変なことだったのだろう。ついでに言うと梅林寺のすぐ下にアマテル神社がある。天照大神を祀る神社という。なにか縁があるのか?

西山寺
40年も前、私はYH選定委員でYH西山寺にきたことがある。2012年、まだYHである西山寺に泊まった。この寺は朝鮮通信使の宿舎を務めた寺であった。40年前にも聞いたのだろうがすっかり忘れていた。ともかくすばらしい宿坊になっていた。
2012年の訪問の目的は対馬の地層観察、宮本常一先生の足跡訪ね、一宮巡りと盛りだくさんだった。西山寺と地層の写真をちょっとだけ入れておく。比田勝港で宮本先生と話をしたことがあるという人に出会ったことも記しておく。