武蔵国府・国分寺


武蔵国の一宮はさいたま市大宮の氷川神社であるが武蔵国府からは非常に離れている。国府と一宮が離れている場合は国府近くの「総社」が立派であるという我が「法則」の例がこの武蔵国でも成り立つ。国府は総社である大國魂神社の付近にあたことはわかっていたが、発掘調査の結果、府中本町駅と総社の間に国司館があったことがわかり2018年に史跡公園がつくられ館が復元展示された。 今回の散歩は東京競馬場から府中崖線にかかる八幡坂を登って大國魂神社に上がって行った。府中本町駅との間に広場ができ国司の館の柱がたてられ建物のの復元模型があった。

武蔵国府 国司館

武蔵国 総社(六所神社)大國魂神社
武蔵の総社だけあって立派。府中駅から続くケヤキ並木の参道はすばらしい。大宮の氷川神社の参道よりも立派かもしれない。上の地図に示した小野神社も実は武蔵国一宮を称している。地名も多摩市一宮である。大國魂神社の六所神社の一番にはこの小野神社がまつられている。氷川神社は3番目。

この神社には実にたくさんの狛犬がいる。西門の鳥居前の狛犬。新しく作られたものだが立派!何が?

武蔵国分寺・国分尼寺府中から北へ3キロほど行くと国分寺崖線にぶつかる。崖の下は湧水があり住みやすいところだったろう。国府からはかなり離れているがここに国分寺・国分尼寺がつくられた。もちろん国分寺市の名前はここから出たものである。現在国分寺を名乗る寺はあるが昔の国分寺そのものではない。現在の国分寺の前に元国分寺跡が残っている。国分尼寺は府中街道、武蔵野線の反対側にある。礎石が残っており公園として整備されている。下は真姿池の脇の清流、現在の国分寺山門

国分尼寺も公園として整備されている。地下の構造も見えるよう工夫されているが、今は入れない?
ここから鎌倉街道の急坂(国分寺崖線)を登って西国分寺駅に行く。本日の散歩、途中はスに乗ったので2万歩。

下総の国府 国分寺

下総国府 総社 国分寺

東京の江戸川から見ると川の向こうに一段と高い国府台の見える。和洋女子大の高層校舎があたりを見下ろしている。おそらく万葉のころにも国司が国府の高台から水郷地帯を見下ろしていたかもしれない。

さっそく国府歩きをしようと思ったが、国府台という名前はあるが、国府の位置は詳しくわかっていない。その理由はこの地が陸軍の軍用地になって古代の遺跡は全部破壊されたからである。私は京成電車の国府台駅から歩き始めた。すぐに真間川を渡り和洋女子大に向かって登って行く。

国府神社:台地への登り口に「国府神社」がある。国府の近くにあった神社だろう。
真間の手児奈と弘法寺

この高台の上に弘法寺がある。大きな寺で眺めは良い。石段の下の亀井院には万葉の美女「真間の手児奈」がいつも汲んだ井戸がある。手児奈はモテモテ女性で、多くの若者が言い寄った。しかし皆にこたえることはできないと真間川に身を投げて亡くなった。

里見公園 国分寺城

再び戻って松戸街道を北に歩き、国府台病院の前から里見公園に行ってみる。ここの高台に国府台城があったという。いろいろ書いてあったがこの辺りの攻防はなかなか激しい。里見八犬伝もその中から出てきた物語なのだろう。そういえば弘法寺には伏姫桜があった。里見公園の川沿いには湧水があった。

里見公園は桜の名所らしい。そこから再び松戸街道に出て指導表通り「総社」に向かうが坂を下ったら手前に矢印が出てきた。一本道なのにどこで通り越したのか。坂を上ってグランド脇にもどる。ここに看板があると言うが誰に聞いても知らないという。町の人に聞くとグランドからはたくさんの遺物が出て来たそうだがまだ国府、総社の位置を確定することはできないそうだ。そのまま坂を下り反対側の台に上がる。公園になっている国分尼寺跡を見る。

下総の国分尼寺

尼寺から国分寺までは500mほど。国分寺は台地の端にあり目の下に真間の町がある。昔の国分寺の後に現在の国分寺建てられている。昔の遺構は現在の墓地になってい場所だという。なんとなくありがたい。国府からは谷を隔てて国分寺の五重塔がまじかに見えたのではないか。ともかく国府台は谷と台地が入り混じった場所である。

国分寺跡と国分寺

総社(六所神社)があった。

総社の跡は陸上競技場の付近にあり碑が立っていると聞いた。しかしいくら探しても周りの人に聞いてもわからないという。何回か周りをうろついてみたが碑は見つからなかった。仕方なく国分寺に向かった。
国分寺、国分尼寺を見たが、総社の位置がわからないままあきらめて市川真間の駅に向かった。しかし途中で六所神社にであった。

この六所神社が実は「総社」であった。もとは市民グランドの中の高台(地図の赤丸)にあったが明治になって陸軍がこの地を接収したためにいまの低地に降りて来たと説明されていた。総社の碑は見つからなかったが、これで納得。

今回は私の趣味の狛犬がほとんどいなかった。ここ六所神社のは顔も崩れて無残だが、江戸期のものらしい。市川真間駅から戻った。2万4千歩。

とここまで書いたら、かの鉄人賀曽利から「総社跡の写真を持っているよ!」とのメールがあった。かなり悔しいが借用してここに載せておきます。でも写真は相変わらず下手だな!・・・・

賀曽利さんから借用

常陸国の国府、総社、国分寺

常陸の一宮は鹿島神宮であるが、その位置は常陸の国の一番南、利根川に沿った場所にある。利根川を渡った下総国の一宮は香取神宮だがその2社は非常に近い。そのために国府の近くに総社がつくられ国司はここでまとめてお参りしたという。なぜ国府と一宮がこんなに離れているのか、何らかの理由があるはずだ。おそらく鹿島神宮は大化の改新を行った藤原鎌足の出身地だということと関係ある。

常陸国府

常陸国の総社


常陸国の国分寺跡(現在の国分寺の敷地内)


現在の国分寺

一宮と総社、国府、国分寺!

昨年全国一宮巡りを一応は終えた終えた。昔の国(旧国)は明治の廃藩置県まで続いていた。その国も一番偉いのが一宮である。しかし旧国の中に、越前のように4か所も一宮がある場合もある。私が住む武蔵の国の一宮は埼玉県の大宮の「氷川神社」であるが、実はもう一つ、多摩市(聖蹟桜ヶ丘駅近く)に小野神社があり、武蔵一宮と称している。

一宮は当時の国の中心にあるものだとばかり思っていた。しかし大宮と武蔵の国府である府中市はかなり離れている。小野神社の方が国府に近いのでこっちが本当の武蔵一宮ではないかと思っていたが、実際に府中に行ってみると駅前には「大國魂神社」という大きな神社があり武蔵の国の「総社」とされている。

これは困った。せっかく一宮を巡ったのにさらに大きな総社があった。その総社はたいていは国府にある。またまた全国国府巡りをせねばならないことになってきた。調べてみると国府には国分寺、国分尼寺が配置されていたという。確かに武蔵の国の府中市、国分寺市と別々の市になっているが隣り合わせで近くにある。名前は残っているが国府跡、国分寺跡が見つかるのはいい方でその場所はよくわかっていないそうだ。となると全国の国府、国分寺探しをせねばならない。

幸いなことに現在の一宮の近くに国府があった場合も多い。そこで全国地図を広げて、まだ行ったことがない国府、国分寺を探し出して全国を回ってみることが、次の課題になってきた。今年はこのテーマで動くことにした。いつまでたてもコロナ終息は見えない。私は勝手に6月1日解禁、ワクチンも打ったので全国まわりを始めることにした。

一人ぶらりバー 目白台崖下散歩 

Stay Home が続いているのであまり遠くへ出かけることができません。友達を誘うのも躊躇します。しかたがないので一人で近所を歩き回っています。以下に載せたのは5月になってからのものです。4月中はブログにはなにも書かなかったので、日付だけさかのぼって乗せておきます。ほとんどはFBに載せたものです。地図の画像のようです

都立高校の先生を辞めたあと学習院高校で非常勤講師として週1回勤めていた。地学の先生はラグビー部の顧問で、昼休みに地学室に集まってビデオを見ていた。その中で顧問の自慢だった江見選手がいた。先日の決勝戦では福岡選手ばかりが目立っていたが、サントリーの江見選手の活躍もすばらしかった。彼は俺の教え子だぜ!とちょっと威張りたかった。木、通りの画像のようです

 その学習院の敷地は山手線の目白駅の隣接している。目白駅では階段を昇ったところに改札口がある。ホームは地面の下にあるが高田馬場側では線路の下を道路が通っている。改札口前の高度30m、反対側は線路下は5m、駅脇の道路の高度差は25mもあってかなりきつい。通り、道路の画像のようです
 本日は目白駅下の崖の続きを歩いてみた。実際には椿山荘の下から崖下を歩いた。木、アウトドアの画像のようです水域、木の画像のようですヤマップというアプリを使うと歩いたコースが2万5千分の1地形図に表示される(青い線)。その地図に崖線(茶色)を入れたのがこの地図である。歩いた道は旧神田川の流路である。学習院の下のカーブはまさにへび道。優雅に蛇行している道路はきもちいい。道路、木の画像のようです
 木、自然の画像のようです24日椿山荘の次の写真は関口芭蕉庵、松尾芭蕉は江戸に出てきてからしばらくは神田川改修の土木仕事をやっていたららしい。その時に住んでいた場所がここだ。現在の入り口は胸突き坂の途中から入る。次の写真が胸突き坂と水神社の景色である。この文章の上の写真は幽霊坂であるが、それは新江戸川公園(旧細川藩の屋敷の庭園:永青文庫)の横から上がる坂で、昼なお暗いので幽霊坂と呼ばれる。胸突き坂と違って階段(怪談)はないので年寄りにはきつい坂である。木、アウトドアの画像のようです坂の上が和敬塾、地方からの学生が寄宿した寮で500人もの学生が住む。村上龍もこの塾出身。今は外国からの学生も多い。前川喜作という篤志家が細川屋敷の一部を取得して建てた。元文部次官の前川喜平は孫。木、自然、草の画像のようです
アウトドア、木の画像のようです
 目白駅の下をくぐって進むと「おとめ山公園」に出る。子どもたちが湧水でできた池でザリガニ取りをしている。おとめ=乙女ではなく将軍家の鷹狩り場で他の人は入れない「御留」山だった。お留山をすぎるとボタンで有名な薬王院。そのわきの坂はまたまたきつい。

第6章 天照大神、伊勢へ旅する!

伊勢と三輪の神の故郷を、神さまの気分になって旅をしてきた。西洋では絶対的な神が生まれたが、アジアの国々では自然神が八百万も存在し新しい神も続々と生まれた。全国に数多くある天神社は菅原道真を神に見立てて祀っている。近いところでは明治の軍神を祭った乃木神社や東郷神社もある。明治神宮も明治天皇を神さまにした神社である。

三輪山に祭られている大物主神、大国主神、少彦名神もモデルがあるのかもしれない。さらに天照大神ももしかするとヒミコをモデルにして神さまに仕立てたのかもしれない。実在のモデルがある時には、その人物を「命」と書き表すことが多い。この後出てくる倭姫命(やまとひめのみこと)も実在の人だったのかもしれない。大国主神の場合も大国主命と書くことも多い。各地にいた大王さまはみな大国主命だったのかもしれない。

「三輪の神紀行」の頃? の大和盆地は様々な勢力が相争っている場所だった。勝ち残った勢力が作った物語が「古事記」であり、そこに出てくる神々はそれぞれの勢力の主だった人を神格化していった。今回「三輪の神紀行」で仕入れた大和盆地の出来事を一覧表にしてみた。
「なにこれ? そんな勝手なことを言って!」
と言われるだろう。創作部分もいくつかあるが、これが私のまとめである。

最終章は天照大神の伊勢への旅である。神さまの後を追跡してみよう。

{図の説明:大和の三輪山には出雲や石見の勢力がやって来て土着した。いわゆる大物主神の系統の人々である。九州から天照大神を奉じる神武天皇、崇神天皇が来て、大国主神系にとってかわった。しかし崇神天皇のときに疫病のパンデミックがあり、日巫女がそれを納めた。天照系の人々は大和を追われた。九州にいた天照系の神功皇后が大和に戻り台与(トヨ)として日巫女の後を継いだ。トヨの息子が応神天皇として大和を支配した。応神天皇は八幡神として祭られ、天照大神は倭姫命に連れられて伊勢に移った。}

 

 

■6-1 御杖に案内されて旅する天照大神

6-1 御杖と天照大神の旅

国民の半分が亡くなるようなパンデミックの原因であるとの託宣を受けて天照大神は天皇の宮から小さな桧原神社へ移された。しかし桧原神社も安住の地ではなくなった。天照大神は御杖代(みつえしろ)に導かれて終の棲家を求める旅にでる。

尊い神さまの道案内をするのは位の高い巫女でなければならない。最初の御杖代は崇神天皇の皇女であるトヨスキイリ姫がうけもち、まず丹後の天橋立にご案内をした。(当時丹後はまだ丹波国の一部だった)天照大神は、姿、形はないのでトヨスキイリ姫自身が丹後の国に行ったのだろう。

天橋立の根元に丹後一宮の籠(この)神社がある。その奥宮を「與佐宮」という。與佐は「よさ」と読む。天橋立の内海を与謝海といい与謝蕪村の出身地でもある。与謝野晶子もこの地と関係がある。トヨスキイリ姫は與佐宮に4年間滞在した。籠神社は「元伊勢」とも呼ばれ、社伝にはここから天照大神は伊勢に移ったと記されている。

もう一つ、天橋立からそう遠くない大江山にも元伊勢がある。こちらには伊勢の内宮、外宮、天岩戸神社など全部セットでそろっている。皇太神宮の屋根には10本の鰹木、内削ぎの千木がある。これは伊勢神宮内宮にしか許されていない象徴である。ここも元伊勢なので特別に認められているのかもしれない。しかし天照大神がおられたという記録はない。

丹後の與佐宮で4年間過ごされた天照大神は大和の桧原神社に戻ってこられた。トヨスキイリ姫が老齢になり旅する生活に疲れ御杖代の役目が果たせなくなったからである。
その後、景行天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)が御杖先に選ばれて再び旅に出ることになった。倭姫は倭建命(ヤマトタケルのミコト)のお姉さんである。

『日本書紀』の伊勢神宮起源伝説には、次のように書かれている。
「天照大神をトヨスキイリ姫より離して、倭姫命に託した。倭姫命は天照大神を鎮める場所を求めて、宇陀の篠幡(ささはた)に詣でる。更に近江国に入り、東のかた美濃を廻って、伊勢国に到る」

この記述をもとに鎌倉時代に『倭姫命世記』という書物が作られた。この書によると倭姫命が近江、美濃のどこを回ったか詳しく記されている。
私は旧跡歩きが大好きなので、まず倭姫命世記に記された社の位置を地図に落としてみた。
「直接伊勢に行けばいいのに、なんでこんな遠回りをしたの?」
こんな疑問がわいた。

日本書紀を企画したのは天武天皇である。天武天皇は隠れていた吉野を出て、近江にあった朝廷に対しクーデターを起こし政権を奪った(壬申の乱)。倭姫命の旅のコースは天武天皇の近江朝への進軍コースの逆コースである。「倭姫命世記」の著者ははるか昔の天武天皇に忖度してわざわざ遠回りコースを作り出したのだろう。
私の「倭姫命の旅」は電車バスを乗り継いで2泊3日の旅になった。その時作った地図を記しておく。地理歴史鉄道好きの人にとってはかなり興味深いみちである。

もう一つ倭姫命のコースではないが伊勢本街道にも御杖代のコースがある。こちらには「御杖村」という名前の村があり「つみえ」ちゃんというキャラクターが迎えてくれる。御杖神社もいい神社である。

伊勢本街道を私は一日で走ったことがある。多気駅から初瀬までほぼ80キロ、山道には7つの峠がある難所だった。朝早く多気駅を出たが途中で真っ暗になった。アメリカ大陸横断ランニングをした下島伸介という猛者といっしょだったが、最後の峠では狐火をみて本当に恐ろし思いをした。小さなライトを頼りに宇陀の墨坂神社の近くまで来たときに急に参道の灯篭に明かりがつき我らの行先を照らしてくれた。

その頃はまだ「つみえちゃん」はいなかったが、御杖代が我らの行先も照らしてくれたのではないかと感謝している。墨坂神社から長谷寺の宿までは里道を走った。明るい初瀬は大都会だった。伊勢本街道は神武天皇が太陽(天照大神)をうしろだてにして、東の方から大和に入ってきた道だと後で知った。

■6-2 天照大神の安住の地が定まった。


倭姫命に導かれ、天照大神は伊勢の国を南下して五十鈴川のほとりについた。
「ここはいい場所だから、ここに静まろうと思う」
と神はおっしゃった。
伊勢神宮の内宮(ないくう)である。

倭姫命は天照大神を伊勢までお送りしたあと、「斎王」(さいおう)として伊勢神宮の近くに「斎宮」(さいくう)を建てて神を見守ることになる。
倭姫命は神話の話であるが、歴史上最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘の大来皇女(おおくのこうじょ)がその任務を担った。斎宮で天照大神を祀るという斎王制度は、南北朝の時代まで約660年間続き60人の斎王の名が残されている。

斎王は、新たに天皇が即位すると未婚の皇女の中から占いで選ばれ、京都の野宮(ののみや)で精進潔斎して伊勢の斎宮に向かった。平安時代、お供の人数は500人ほどで大行列になった。この大行列を「斎王群行」といい国家の重要行事になった。伊勢の斎宮は多くの人々の集まる都市のようになった。

斎宮は近鉄の斎宮駅の近くで、現在も発掘作業中である。ここには巨大な斎宮(さいくう)の館があったことがわかっている。斎宮の地には博物館が作られており、その歴史を見ることができる。

倭姫命は無事にお役目を果たし、斎宮で静かに余生を過ごし亡くなった。お墓は天照大神のおそばの内宮に作られた。いま倭姫宮として天照大神を見守っている。

と、私は思っていた。しかし物語はまだ先があったことを、このあと志摩に行って知らされた。そのことは後に述べることにして、とりあえず倭姫命のお導きの役目は伊勢内宮に天照大神をお祀りしたことで無事に終了した。

■ 6-3 伊勢神宮外宮(げくう)

伊勢神宮 外宮(げくう)

2013年10月、外宮の式年遷宮の日、まず宇治山田駅から伊勢の外宮を訪れた。外宮の神さまは豊受大神で、天照大神が丹後一宮の籠(この)神社におられた時に知り合った神さまで、天照大神が伊勢に鎮まった500年後に呼び寄せたという食べ物の神である。(上の写真には丹波とあるが、律令制以前は丹後は丹波に含まれていた)

遷宮祭は夜に行われるので一般人は昼間のうちにお参りする。昼間はまだ古い方の社に神さまはおられるので、私たちはそちらの宮の前で頭を下げた。伊勢神宮ではお賽銭をあげるなどは失礼にあたるとされているので賽銭箱など置いていない。もともとは皇室、公家、寺など専用の神さまで、天下国家の安寧を願うもので、一般庶民がささいなお願いをしてはいけなかったのだ。

しかし中世の戦乱で領地や社殿も荒れてしまい、式年遷宮もできない状況になった。そこで方針転換して神職だった御師(おんし)は全国各地を回り伊勢参宮を進めた。
江戸の時代、世の中が落ち着いてくると現世利益を求めて江戸からも多くの庶民が訪れるようになった。江戸からは片道2週間ほどかかるが、庶民は「講」を作って代表者が代参するという方式がとられた。講の所属員はいつか自分にも順番が回ってくる。旅が自由になった今でも「伊勢講」は各地に残っており、旗を先頭にお参りしている姿が多くみられる。
昔は皇室、公家らの専用であったが、今は日本国民が一生に一度は行きたい神社として宣伝が行き届いている。庶民の私もこれまで何回もお参りができるようになっている。

伊勢神宮の社殿は高い垣根で囲まれており、中の様子をうかがうことはできない。しかし外宮の屋根だけはみえるので、鰹木の数を数えてみた。9本で千木は外削ぎになっているので男神であることが分かる。外宮には天照大神と食事をともにする神が丹後の籠神社から呼び寄せられた。千木の数が男女神を示していると言われているので、9本の千木の神社の神は男神である。天照と一緒にお食事するのは男神である。

屋根は茅葺である。20年もたつとずいぶん傷んでいる。これじゃあ雨漏りするかも知れない。伊勢神宮の造りはすべての唯一神明造と言われる古い様式である。何の手も加えてはいけないので痛みは速い。20年というのは茅葺屋根の耐久限界かもしれない。

すぐ隣の敷地にはすでに新しい社殿が用意されているので、本日夜に隣に引っ越される。わずか十数メートルの移動だが厳かな儀式が行われる。遷宮が行われると古い社殿はすべて取り壊され、砂利の敷地になる。使える木材は全国の神社に下賜されるので無駄にはならない。

宿に戻って夜の遷宮の様子をテレビで見た。神さまをお導きする斎王の役目は天皇の皇女の黒田清子さんが務められた。斎王制度はとっくに廃止されているが、その形式は今も多少は残されているのだろう。

 

■ 6-4 涙こぼれる伊勢内宮

内宮への道
まず伊勢神宮の外宮に参ってから内宮に行くのが順序である。今は御木本道路が付けられているがそれでも4キロほどあり、みなさんはバスで移動する。私は昔の参宮街道で旧古市遊郭に向かった。弥次喜多のお伊勢参りはまず第一番に古市に行き、その後に外宮に参るという罰当たりな参詣であった。

私は正しく歩いて、「おはらい町」の繁華街に出てから五十鈴川にかかる宇治橋の前に出た。お参り前なのでもちろん「赤福」などは食べなかった。
立派な鳥居をいくつかくぐり一番奥の宮の入り口につく。内宮の遷宮は外宮の遷宮よりも前に終わっており、神さまはもう新しい社殿にお移りになっている。石段を登って社殿を見ようと思ったが、周りは新しい垣根がめぐらされ、鳥居には御簾がかかっているのでまったく見えない。後からドローンの映像を見て、御簾の内側の様子が分かった。

こんなに立派な社殿を皆が見ることができないなんて、残念だ。中に入ることができるのは皇室の方だけかと思っていたが、実は明治になるまで天皇は伊勢に参拝したことはないという。それまでの天皇家は仏教徒として寺に葬られていたのだ。
明治になって神仏分離をして国家神道になったので、明治天皇や昭和天皇は伊勢神宮に参拝できるようになったが、第二次大戦後に新しくできた日本国憲法で政教は分離され、天皇は公式に神社にも寺にも参ることはできなくなった。

内宮、外宮は垣根が高くて中を見ることはできないが、数多くある末社は全体を見ることができる。ほとんど外観は変わらないという。私もすぐ近くにある別宮の荒祭宮(あたまつりみや)に詣でた。新旧の社がまだ並立していた。写真のように、自然のままにされていた旧社殿は傷みが激しい。改めて20年遷宮の意味が分かった。

内宮の深い森の中を歩くと、西行法師の
「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
言葉をおもいだす。
西行ほどではないが、私も「なみだこぼるる」ありがたさを感じる。特別の現世利益をくださるわけではないが、なにか清々しく感じられる。
深々とした森、五十鈴川の清流などの装置にも感動するが、それ以上に神さまが苦難の旅をされてきたという物語があってこそ、涙こぼれる思いになるのではないか。

■ 6-5 神さまの旅の終わりに

謡曲『三輪』の中で謡われる
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身のおんこと、いまさら何をいわくら(磐座)や!」
の言葉に触発されて、伊勢の神の故郷、三輪の神の故郷を訪ねてきた。
ほんの少しだけ「伊勢の神とは、三輪の神とは」という疑問が解けそうになってきた。

環境問題の先駆者であり、俳人でもあった山岡蟻人さんに「自然と人工の違い」について質問したことがある。
「コンクリートのダムだってヒコーキだって自然を改変しただけで、自然物だよ。人が創り出した最高傑作は言葉であり、神だ!」
そうなんだ! 神というのは人間が創り出した人工物なのだ。宗教はそれをいかに「見える化」しようとしたものなのだろう。

天武天皇、持統天皇は「古事記」という壮大な物語をプロデュースして後世に残した。後世の人はそこで創作された神々を「見える化」して日本の宗教を作った。さらに外国からもたらされた様々な宗教と習合して日本独自の宗教を作ってきた。

西洋や東洋の宗教のような教義は日本の古代宗教にはない。古代宗教は祈ることだけだ。現世の人たちのように利益を願っているわけではない。祈ることによって心の平安を得るのが本来の宗教の意味かもしれない。
なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる
と言ったのは、日本的仏教徒である西行法師である。
本来の仏教の伝道師である弘法大師なら、こんなセンチメンタルなことは言わないだろう。

私は伊勢の神と三輪の神が一体何かを意味するのか知りたくて旅に出た。そこで知ったのは長い間、時間をかけて人々が「神話」を創造してきたということだ。
ある場所では山の神、海の神、火の神も土や風の神もいる。ときには特別な人さえも神にする。それら神に名前や役割を作って物語を作ってきた。

日本国の歴史の中で、私もその一人として「神の物語」を創造しようとしているかもしれない。私自身の「神の物語」でもうひと法螺を吹かなければいけないなぁ!

だんだんと気宇壮大になってきた。
とりあえず、三輪の神紀行はこれで終えることにする。

あとがき1 簡単には終われない!


旅を終えた! と書いたが、その後に志摩の国を再訪して倭姫命について新しい知見を得た。倭姫は天照大神を伊勢内宮にお連れしたあと「斎宮」で静かに余生を過ごし亡くなった後「倭姫宮」に葬られた、と思っていた。しかし志摩に来たら「志摩こそが倭姫の終焉の地」となっていた。
旅は簡単には終わっていなかったのだ。

「倭姫命世記」には、天照大神が伊勢神宮に落ち着いた後、倭姫は神のお食事を求めて「御食津(みけつ)の国」である志摩に行く話が載っている。志摩は海の幸が豊富な国だった。今でも伊勢の神さまのお食事は志摩の恵みからもたらされている。

40数年前、宮本常一先生が近鉄の志摩博物館を創るための資料を集めていた場所である。私は武蔵野美大の工藤先生に連れられて、資料集めのために歩き回ったので土地観はあった。しかしその時には倭姫命は知らなかった。今回志摩を訪れたときに、志摩半島最東端の国崎(くざき)の岸壁に「倭姫命到着の岬」と書いてあったのを見て驚いた。

もちろん神話の話だが、志摩の人々は倭姫命がここに来たということを知っている。古い歴史を持たない東京で育って、私は「神話」とは縁遠い生活をしてきた。しかし今回訪れた各地では神話に包まれた生活があった。ヒミコさんはすぐ隣にいたり、桃太郎はまだ子供だったのでお姉さんが鬼退治に連れて行ったんだ!という話も聞いた。葛城の高鴨神社に座っていたら「前の皇后さんはここの出身だよ!」と教えられた。美智子上皇后の事かと思ったら、仁徳天皇の皇后だったという磐の姫の事だった。
神話の中で生きることができるというのは、うらやましい。自分はその延長線上に生きているという思いがあるからだ。

志摩一宮の伊雑宮の隣に「御師」の家があった。伊勢では「おんし」という。現役御師さんと話が弾んだ。
「実はこの伊雑宮こそが天照大神を祀る最後の場所で、大神をお導きした倭姫命はここでお亡くなりになり葬られた。倭姫命のお墓もある」
という話を聞いた。
早速案内をしてもらった。

「エエーッ これが倭姫命の墓?」
と意義を挟んだら、地元の人が墓を発見した後すぐにお上がやってきた。
「出土品を全部出しなさい。ここから何か発見されたことは他言無用」
ときつく言われたとのことだった。

「志摩に倭姫の墓が見つかった」
しかしお上の命令で地元民はみな口をつぐんだ。
 志摩の墓発見のすぐ後(1923年)に伊勢に倭姫命の墓が見つかったという新聞報道があった。そしてすぐにその場所に倭姫宮という神社が作られた。
お上の言いつけを守って誰も志摩の倭姫の墓については口外はしなかった。しかし自分も年取って本当のことを後世に伝えなければいけないと思ったと御師さんはいう。

「おおーっ! 内宮の倭姫宮の創立にそんな裏話もあったのか」
本当かどうかはわからないが、御師さんの話には迫真の迫力があった。
墓の中の副葬品はすべて持ち去られたが墳墓の床の石は残っている。神之田のわきに大きな石碑として残されている。倭姫命にふさわしくすばらしく大きな青石だった。

伊勢への旅は終えたつもりだったが、おもしろい話がまだまだ残っていた。簡単に話は終わらないものだ。

■ 本当のあとがき!

 2016年7月、世界の首脳が集まってG7伊勢志摩サミットが志摩のホテルで開かれた。日本の首相は各国の首脳に風光明媚な志摩の国を紹介した。
その際、志摩市は志摩の真珠とともに『志摩という国』というアーティストブックを首脳に贈った。伊勢和紙を使い、桐の箱に入った志摩を紹介する豪華本だ。

本の内容は宮本常一の「志摩という国」という文章と大伴家持の和歌、そしてなんとなんと、私が書いた「海が作った風景」という文章が載せられている。

40数年前に志摩の博物館の案内所に書いた文章を再録したものだ。すばらしい写真と英訳もつけられている。我が家にも残っていない文章が、再び日の目を見るとは思ってもみなかった。
オバマ米大統領、メルケル独首相、英首相ら世界の首脳に届いたかもしれない。

2016年10月、倭姫命を追う旅は伊勢の斎宮ではなく、さらに進んで志摩の国崎が終着駅であることを確認した。そして御食津国の豊かな実りをアーティストブックの創作者の竹内千鶴さんの案内で堪能した。
2013年、伊勢遷宮をきっかけに始めた「三輪の神紀行」はとりあえず決着をしたが、まだまだ見残したことがあり、考え不足が多々ある。
さらに各地を旅しなければならない。

「若い時に旅をいたさねば 老いての物語がない!」

かなり年をとったが、まだまだ旅をせねばならない。今回分はとりあえず終了。

新しい発見、考えが見つかれば、また物語を作るつもりだ。

第5章 神武東征、神功皇后東征!

「思えば伊勢と三輪の神 一体分身の御事 今さら何を磐座や!」
伊勢の天照大神と三輪山の大物主神はもともと一体の神さまだよ!そんなこと今さら聞くなんて何を言うのか(言うと磐座の掛詞)
謡曲『三輪』の言葉をきっかけにして天照大神の故郷、三輪山の神の故郷を訪れてみた。天照大神の故郷は「高天原」で、「天の浮橋」でつながっているが、この世のものではなかった。高天原を追放された天照大神の弟のスサノオ神が「豊葦原の中原」に降りてきて八岐大蛇を退治して出雲の国を豊かにした。

大国主神はスサノオ神の娘と結婚し出雲の国を譲り受けた。さらに大物主神や少彦名神と一緒になって大和の国を作り上げた。豊葦原の中原である大和国が豊かになったのをみて、天照大神はこの国は弟の国なので大国主神から返還、すなわち「国を譲り」をさせた。しかし高天原のゴタゴタの間に状況は変わり自分の孫(天孫)を降臨させる場所は南九州だけになっていた。

南九州で力を蓄えた神武天皇(もちろんそんな名前ではなかったが)は兄と一緒に
「ご先祖様の約束の地に向かおう!」
と南九州を出立した。
これが有名な「神武東征」で、そのコースを地図に落としてみた。

この章では神武東征のコースを歩いて見つけた様々な出来事を述べていくが、もう一つ同じような東征があったことを知った。神功皇后と皇子(応神天皇)の東征である。この東征は神武東征よりもはるかにスケールが大きい。新羅と百済を攻略してその勢いで瀬戸内海を東に進み、浪速で待ち伏せた勢力を打ち破って大和に入るのである。神功皇后は稀代の英雄であるが、天皇になったとの記述は日本書紀の片隅にしかない。天皇空位の後に敦賀で名前を変えた息子が大和に入り第15代応神天皇となった。

天皇家は126代続いているが贈り名に「神」がつくのは神武天皇、崇神天皇、応神天皇の三天皇と神功皇后だけである。そのうち二人は九州からやってくるが、直接大和入りできず、熊野からの南コースと日本海からの北コースを迂回して大和入りをした。なぜそんな迂回をしたか古事記に合理的な説明はない。しかし何か大きな意味があったのだろうが、疑問は残る。まず二つの東征について話を進めよう。

5-1 神武天皇の船出

竜宮城から来た豊玉姫は実はワニだった。まだ屋根を葺き終えていない産屋で「ウガヤフキアエズ命(鵜葺草葺不合命)」を産んだ。その子は豊玉姫の妹の玉依姫と結婚し4人の子どもを設けた。一番下の子が将来神武天皇になる「ワカミケヌ命」である。初代天皇はワニの孫なの?という疑問がわくが、因幡の白兎の時に述べたようにワニは海洋系の和邇一族だったと理解されている。

高千穂の宮でワカミケヌ命は一番上の兄イツセ命(五瀬命)と一緒に
「大おばあさまの約束の地、出雲に行くぞ!」
と決心して日向を出発した。
宮崎神宮の祭神はウガヤフキアエズ夫妻と神武天皇である。神武兄弟はここから出立したと私は思っていた。しかし宮崎神宮は明治天皇による「神武創業の始め」の大号令で脚光を浴び、神武天皇の最初の宮として特別待遇になり国幣中社、官幣大社へと破格の大出世をしたごく新しい神社であることを知った。もともと日向の国の中心はもっと北の都農神社のある延岡の方にあった。

高千穂から出てきたワカミケヌ兄弟は美々津の港から船出する。船出の前に彼らは日向一宮の都農(つの)神社に詣でる。都農神社の祭神は大国主神である。天照大神の子孫がなぜ大国主神にご挨拶するのかわからないが、この神社が日向では一番古いからだと地元の方が教えてくれた。
「都農神社の大国主神は日本で一番の神さまだから!」
天照大神の子孫といえどもまだまだ大国主神には及ばなかったのだろう。

神武天皇は都農神社お参りして美々津(ミミツ)の立磐神社から船出した。立磐神社には「日本海軍発祥の地」と書かれた大きな石碑があった。地元のおじさんが
「神武天皇の船はあの岩の向こうを回って出て行ったんだ!」
と沖の岩を指して、見てきたような説明をしてくれた。

「約束の地」は天照大神が大国主神から譲られた出雲の国(豊葦原の中原)である。そこに行くためには関門海峡を通って日本海に出なければならない。
美々津の港からまず宇沙(宇佐)をめざした。豊前の宇佐神宮のことである。辺鄙な田舎に住んでいた兄弟が、当時すでに巨大国家になっていた出雲に向うには、仲間が必要だった。宇沙で情報を得たイツセとワカミケヌの兄弟は、日本海に出るために関門海峡を抜けて、北九州の岡田の宮に向かった。

しかし古事記の記事では岡田の宮から再び関門海峡をもどって瀬戸内海にはいり、安芸、吉備に向かっている。
関門海峡は狭くて流れも速い。今でも航海の難所である。そこを古代の船で行き来するのはあまりにも危険が伴う。なぜ関門海峡を行きつ戻りつしたのだろうか。

田舎者の神武軍は玄界灘に面した岡田の宮で
「今の時代、国の中心は出雲から大和に移っている」
という新情報を得た。
日本海沿いに出雲に行くために関門海峡を越えたが、目的地を大和に変えて再び海峡を戻って瀬戸内海をへて浪速に向かった。ワカミケヌ一行が岡田の宮に行ったことへの私の説明である。