日八会さくら祭り 無段差社会

日本橋八重洲さくら通りで、「日八会」さくら祭りが開催されている。まさに東京駅の真ん前という場所だ。両側の桜並木の下、生ビールやワイン、お酒などの飲み物や焼き鳥などの軽食やおつまみの模擬店が出ている。通りを閉鎖してラグビーの世界選手権を盛り上げるイベントも開かれ、実業団のラグビー選手が大勢壇上に上がっている。

 このイベントに古い友人のAIDAくんが「無段差社会」のブースを出しているので見に行った。彼は現在は電動車いす生活である。その生活から街にはいかにたくさんの段差があるかを知った。車いす生活者が外で生活するために、段差がどこにあるかを示す地図アプリを作るNPOを立ち上げたとのこと。まだ第一歩だがいい企画だと思う。

 彼はさらに段差は地面だけではなく、人間の心の中にもたくさんあることも知り、心の段差も考えなければいけないと言っている。この指摘も重要だが、いかにして段差を取り払えるか我々も考えなければならないなあ。最近私も高齢者と社会の段差を感じている。どう考えればいいのかヒントが欲しい。ともかくAIDAさん、頑張ってほしい!

桜の下で入学式

我が家の近くの中学校では今日が入学式。まさに満開の桜の下を新入生が入って来る。やはり入学式のときに満開なのはいい。あちこちの桜の名所もいいが、学校の桜ってのもいいものだ。

播磨坂 お花見

文京区の茗荷谷、そこから小石川植物園に下る坂が播磨坂である。むかし何とか播磨の守の屋敷があったのでその名になった。この坂は東京の環状三号線の予定地だが、何年たってもこの部分しか開通していない。道路の真ん中が広い分離帯になっているがそこに桜が植えられている。こんな道路が東京を取り巻いたらさぞや壮観だったろうが、ほんの500mほどで途切れている。
私はこのすぐ近くに勤めていたので、花見時はいつもここに来ていた。退職したのちにも毎年仲間で集まっている。しかしここのところじり貧になり、昨年はとうとう3人しか集まらなかった。それも病人ばかり。ところが今時のじいさんばあさんはけっこうしぶとい。ことしは四国からの仲間も集まり、7人にもなった。みな病人みたいな人ばかりだが、元気は回復している。桜の花はそっちのけで、昔行きつけのお店に行って大いに盛り上がる。来年もこの調子で集まれればいいな!ということで別れた。

長倉洋海写真展 目黒川お花見

恵比寿の写真美術館に長倉洋海さんの写真展を見に行った。これはすばらしい。長い間世界の紛争地に繰り返し入って人を撮ってきた。アフガンでのマスード司令官とは何年も共に過ごしてきた。長倉さんでなければ撮れない数々の写真があった。これまで見た写真展の中でももっとも感動させられたものだった。写真展の写真を撮ることはできないので言葉で伝えたいが、我が言語能力が乏しいのが悔しい。

写真展をでて目黒川へ花見に行ってみる。長倉さんとは比べるべくもないが、まじめに写真を撮ってみた。でも我が写真からは何も伝わらないなあ。ちょっと寂しいが、2017年の記録として並べておきます。

アンモナイト発見!

目黒駅近くにAmazon の本社がある。玄関に行くにはドレメ通りから入るが、その壁が自然石になっている。よくみると丸い模様がついている。エスカレーターを下りながら見るとアンモナイトらしい。急いでカメラを取り出して写真を写していると、警備員が「ここは写真禁止です」とのこと。テロを警戒しているらしいが、「これはずばらしい化石ですよ」というと「接写ならいいです」とのこと。警備員に「社長にすばらしいアンモナイトがあると伝えておいて!」と言っておいた。

隠岐の島 人口は増えているそうだ!

島後の西郷港の前のホテルに泊まっている。食事は付いていないので外に食べに行かなければならないが、なんと6時にはほどんどの店が閉まっている。一軒だけ7時半までやっている店を見つけたので、空腹で寝ることは免れた。昨日は野菜の物産店でお弁当を買っておいたので夕飯、朝飯をたべた。この島では昼間に外食はするが朝晩は自宅で食べることが原則のようだ。飲み屋もほとんどない。

人がいないのかと思っていたら昨日の朝フェリーターミナルはすごい人だった。地元高校のブラスバンドもでて、転勤で本土に帰る先生や進学、就職の生徒たちとの送別だった。テレビでもその様子を放映していたが、私たちも感動しながら眺めていた。東京ではこんな別れはあまりないだろう。ここでは、出て行ったらもう戻らない子たちも多い。今生の別れ、そんな涙をたくさん見た。

隠岐の島はまだ寒かった。桜はまだまだ。銘木「世間桜」の看板があった。「よのなかさくら」だそうだ。咲いていたのは河津桜、梅、サンシュウ、ヤマザクラ。

ところで隠岐の島、最近人口が少し増えているという。海士町(中ノ島)の民宿のお兄さんが、高校の留学生を受け入れていると聞いた。日本国内だけではなくオーストラリア、ニュージーランド、グリーンランド(?)と言っていた。海士町の人口は2339人だが360人が島の外から来た人。高校は2008年に30人を切って廃校寸前だったが「島前高校魅力プロジェクト」が成功して2013年度には45人が入学した。寄宿舎の関係で島外からは24人くらいだからけっこう狭き門になっている。

隠岐についた日に英国人に出会ってお宅にお邪魔した。まさか最初に話す人が外国人とは予想もしていなかったが、隠岐の島は島外の人、外国の人の活躍で活性化している。「ないものはない!」というのは海士町の町長の言葉だが、まさに何でもある町なのだ。やりようによっては、こんな辺鄙なところでも人口増加は見込めるという実情を見た思いだった。なかなかすばらしい。皆さん来てください。

玉若酢命神社(たまわかすのみこと)

 西郷の街の近くに玉若酢命神社がある。北にある水若酢神社が隠岐の一宮であるが、玉若酢命神社の方が格式は高いという。それぞれ水若酢命と玉若酢命を祀るが、その二柱は隠岐の国を作った神さまと言うだけで、中央ではまったく知られていない。玉若酢命神社の宮司は「億岐」(おき)家が受け継いできた。億岐家は隠岐の国の国造を務めていた。ということはもしかするとこちらが隠岐一宮だった可能性も高い。しかし今は隠岐の総社ということになっている。

玉若酢命神社の宮司家は重要文化財、見学もできる。と言いながら時間がなくて素通りしてしまった。
神社の裏山には前方後円墳をふくむ古墳がたくさんあるが、整備はされていないので、どこが古墳高まったくわからない。蜘蛛の巣だらけになった。

隠岐一宮:水若酢神社

 隠岐一宮は「島前」の西の島の由良比女神社、島後の五箇に水若酢神社とされているが、島前の知夫里島にはさらに一宮神社がある。島後には水若酢神社によく似た名前の玉若酢命神社があり、水若酢神社よりも格式が高いと言われている。そこで玉若酢命神社は隠岐の総社とされている。
水若酢命と玉若酢命は隠岐を作った神さまと言われるが、本土のどの系統かよくわからない。神社の建物はいずれも隠岐造りと呼ばれる豪壮華麗な屋根を持つ。私が見るところでは出雲大社の社殿に似ている。昔は大社造りと言われたそうだが、いまは春日造りの変態とされている。というが昔の人はきっとすぐ近くの出雲大社を模したろう。遠い奈良の春日大社をまねるはずはない。

隠岐の神社には必ず土俵がある。現在隠岐の海をはじめとして6人の力士がいる。こんなに相撲取りがいる島はないだろう。


神社の裏に五箇創生館や郷土博物館がある。地元の先生が作った丸木舟があり、これで本土まで漕いだそうだ。

焼火(たくひ)神社

島前は大昔の火山だったが、激しい噴火でカルデラができ、その後沈降したために外輪山がリング状の島として残った。カルデラの真ん中には中央火口丘があった。そこが今は焼火山として残っている。焼火というのは火山の火ではなく、ここで灯台の代わりに火をともして位置を知らせたらしい。後鳥羽上皇の船もこの火を頼りに隠岐にやってきた。
逆に後醍醐天皇はこの明かりを頼りにして隠岐を脱出し、「建武の中興」を成し遂げた。しかし2年後後醍醐天皇は足利尊氏に追われ、吉野に逃げて南朝天皇となった。
いわゆる南北朝であるが、60年後第三代足利義満によって北朝に三種の神器が戻されて、後醍醐天皇の系統の南朝は滅んでしまった。


別府港でレンタカーを借りたので、焼火山まで上がることができた。ギリシャ人が電動自転車で登ってきたが、かなり大変だったようだ。車を置いて階段を上ること20分ほどで大きな鳥居に出た。そこからは平たん道、大きな石垣が出てきた。昔はお寺があったが、明治の廃仏毀釈で消滅し石垣だけが残った。その奥に岩の窪みを利用した社殿があった。隠岐造りではないが、いい神社だった。どんな神様を祀っていたのか、確認できなかった。後で見たら天照大神のようだ。どうりで屋根は隠岐造りだった。

隠岐一宮:由良比女神社

西の島の港は別府港だが、町の中心は浦郷で、隠岐一宮はここにある。浜に出ると写真のように、女性がイカをとっている姿を描写している。この神社には「イカ寄せ」の伝説がある。写真左の「番小屋」はイカが寄せてくるのを見張る小屋だそうだ。昔は大量のイカが寄せてきて、大金持ちになった人もいたそうだが、いまはここへイカが集まることは少なくなった。

由良比女はここ隠岐の島の建国に功績のあった比女だが、どんな神様なのかはよくわからない。もともとは知夫里島に神社はあったが、いつの時代からか浦郷に移ったそうだ。「土佐日記」には「ちぶりの神」となっているので、本土に近い知夫里島にあったと考える根拠になるだろう。

社殿は実に立派。出雲大社に近いので、出雲大社の本殿に似ているが、正式には隠岐造りだそうだ。出雲に似ているのではなく春日大社本殿に似ているのだそうだ。まあどっちでもいいが、なかなか立派。昔の隠岐の繫栄がしのばれます。狛犬は隠岐神社などにあった逆さ狛犬ではなかった。隠岐はみな「逆さ狛犬」の大発見と思っていたが、ちょっと残念。

奈伎良比売(なぎらひめ)神社

中ノ島の東端に豊田の港がある。中ノ島は隠岐の島の中でも一番たくさん水田がある。昔から豊かな田んぼがあったようだ。ここでとれるお米は東京で1キロ1800円するそうだ。ここを開いたのが伊予の國からやってきた奈伎良比売だという。
豊田の港の奥に奈伎良比売神社がある。私たちは北側にある奈伎良比売の父である宇受賀命(うずかみこと)神社からタクシーで来た。親切な女性運転手さんで、いろいろ説明をしてもらった。ドイツから来て農家をやっている人、隠岐牛のファーム、山地酪農などなど。

神社もよかった。ここの狛犬も逆立ち。本殿はかなり高いところに上がっている。大社造りだと思う。桜はちらほら咲いている。いい感じの神社だ。それに格式のある式内社でもある。なかなかだ。

隠岐神社 後鳥羽上皇を祀る

菱浦の港がある中の島は海士町になっている。平安時代、承久の変に敗れた後鳥羽上皇は隠岐に流された。その時の隠岐が海士町で、町の中心に「隠岐神社」がある。隠岐に来るまえ、隠岐神社が一宮に違いないと思っていた。しかしこちらに来て聞いてみるとけっこう新しい神社だということが分かった。

隠岐神社の前に、資料館があった。観光パンフなどから以下のような説明を受けた。 承久3年(1221年)承久の乱によって隠岐へ配流された第82代天皇、後鳥羽天皇(配流時は上皇)は、海士郡の源福寺を行在所とした。村上氏が身辺警護と監視にあたっていたが、延応元年(1239年)崩御し源福寺裏山で火葬にされ、火葬塚が作られた。のちに松江藩主松平直政が廟殿を造営し明治まで維持されたが、明治2年(1689年)に廃仏毀釈の影響で源福寺は廃寺になった。

江戸末期の絵図には、火葬塚に「後鳥羽院神社」が描かれていた。明治6年大阪府の水無瀬神宮に後鳥羽院神社(?)ができたので海士町神社の神社はなくなった。しかし地元では祭祀が続けられていた。後に旧源福寺境内地は、隠岐の御陵とされた。隠岐神社は、火葬塚の隣に昭和15年(1940年)の紀元二千六百年の奉祝事業で島根県が創建した。

隠岐の島です。 

羽田を7時25分に出発し、出雲空港を経由して隠岐ジオパーク空港に10時ちょっと過ぎに到着。空港から西郷港にはバスで行く。わずかな距離だが510円。本日は12時05分のフェリーで海士町に行くことにしている。

1時間半ほどあるのでどう過ごすか考えていたら、背の高いイギリス人と知り合いになった。英国のバースに住んでいるが、今は休暇で奥さんの実家に帰っているという。私たちもバースに行ったことがあるという話をしたら、お宅にお邪魔することになった。英国風のお茶をいただいて、隠岐の名所、名物の案内をしてもらった。自宅の前は水路で、窓から船が見える。まさに昔の漁師の家という感じ。日本の港町で島の説明をイギリス人から受けている。なんかおかしい感じがする。

お茶と八朔をいただいて、フェリーに乗る。ちょうど転勤、入学シーズンで、朝の便は多くの学生、先生でにぎわっていたようだ。昼の便はガラガラだった。1時間ちょっとで中の島の菱浦港へ着く。降りた人はあまりいない。駅前の島牛レストラン(ここ一軒しかレストランはなかった)でランチ。隠岐牛の焼肉だ!おいしかった。

隠岐島 一宮巡り 雪崩高校生

先日、まだ一宮めぐりは完了していないと賀曽利さんに言ったら、「どこがまだですか?」と聞かれた。「隠岐の一宮はまだなんだ!」と伝えたのが2月の末。3月の4日だったかに賀曽利さんから電話があった。「イッヒッヒ、いま隠岐の一宮の前にいるんですよ!」

私は桜が咲く頃を計画していたので、先を越された。残念! 彼はもう何回も全国一宮巡りを繰り返しているので、悔しがることもないのだが、でもちょっと悔しい。私は明日から隠岐に行く。隠岐の一宮は島前、島後の島に二ヶ所ある。さらに中ノ島に隠岐神社もあるそうだ。それらを全部回ってこようと思っている。

ルートは羽田から出雲空港、出雲空港で乗り換えて島後の隠岐空港にいく。安売り切符がないので結構交通費はかかる。

というような事を書いていたら、那須で高校生が大勢雪崩にあったというニュースが流れている。「雪崩注意報が出ていたのに!なぜ強行したのか」と疑問がていせられている。そんな論調は当然あるだろう。

私が引率者だった時、「これぐらいの吹雪くらいは大丈夫!」と判断してラッセル訓練をやっていた。テレビで見ると潅木も生えているのでそんなに大きな雪崩が発生することはないと判断しただろう。他人事とは思えない。高校生たち、気の毒に、かわいそうに。申し訳ない!