■1-5 桧原神社の奥には天照大神がおられた

  狭井神社から山の辺の道を北へ上がっていくと玄賓僧都の玄賓庵があり、さらに少し歩くと桧原神社にでる。ここは大神神社の摂社であるが、立派な鳥居があるだけで拝殿も本殿もないすこぶるシンプルな神社である。最初に来た時にはどこに神社があるのか訝しく思った。鳥居前にある小さな社は神さまのお付きの巫女の社で、神様はこの鳥居の奥におられる。桧原神社には神官はいないので、以下は大神神社で聞いた桧原神社の神様の話である。

第10代崇神天皇は三輪山の麓、磯城瑞垣宮に都をおいた。その宮には天皇家の祖先である天照大神と国津神である大国主神を一緒に祭っていた。しばらくするとこの地に恐ろしい疫病が蔓延して国民の半数が亡くなるというパンデミックが起きた。偉い巫女に占ってもらうと、それは天津神と国津神を一緒に祀ったために起こったことであり、二つの神を分離するようにとのお告げがあった。祀りごとに対して天皇であっても逆らうことはできず、崇神天皇は大国主神を大和神社に、天照大神を桧原神社に移すことにした。すると恐ろしい疫病のパンデミックは収まった。

この話を読んで、玄賓庵に女装の神(天照大神)が訪ねてきたことが納得できた。
三輪山の正面の大神神社には大物主神が祭られているが、裏手にあたる桧原神社と大和神社には天照大神と大国主神がそれぞれに祭られているのだ。
桧原神社の本殿は大神神社と同じ神体山の三輪山である。崇神天皇は自分の宮から天照大神を退出させたが三輪の地から遠く離れた場所ではなく、シンボルである三輪山の裏側に移しただけだった。
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事 いまさら何をいわくらや!」
伊勢の神と三輪山の神が同じだというという謡曲を聞いて、かなり悩んだが、いま解決の手掛かりができた。
要は同じ時期に三輪山に天照大神(伊勢の神)と大物主神(三輪の神)が祀られていたのだ。

世阿弥の時代、すでに天照大神は三輪の地にはおられなかった。しかし世阿弥は伊勢におられる神様は三輪山の出身なんだよと言いきかせる「能」を作ったのだ。

 天照大神は、桧原神社の小さな社に祀られているトヨスキ入り姫に連れられてこの地に来たが、さらに丹後半島にまで足を延ばした。丹後一宮の籠神社には数年居られたという。その旅の後再び桧原神社に戻り、次の御杖代(先導役の巫女)である倭姫(やまとひめ)に連れられて旅をして伊勢の地に安住の地を作られたという。この話は古事記や日本書紀にはないがのちの世に作られた「倭姫世紀」という本につづられているという。天照大神が通った地域には神社が作られており、今は観光地として売り出そうとしている。伊勢本街道には「御杖村」があり、「つえみちゃん」というキャラクターが旅人を迎えている。

伊勢と三輪の神のことはなんとなくわかったが、なぜ天照大神は旅を繰り返し伊勢に行ったのか、なぜ出雲の神が大和にのこったのかという疑問は解消しない。これを解決するためには出雲、伊勢に行く必要がでてきた。