■ 2-5「高天原」を創作したのは誰?

「古事記」は天武天皇の命によって稗田阿礼が伝承していた歴史や神話を太安万侶が文字起こしをしたと学校で習った記憶がよみがえった。
初代神武天皇の即位は紀元前660年とされている。古事記の完成は8世紀前半である。とすれば古事記は二千数百年前の歴史を書いたものである。いくら記憶力のすごい稗田阿礼でもこんな昔の伝承を覚えているはずはない。天武天皇の時代の価値観に合わせて伝承を作り出したと考える方が自然である。私は、古事記は天武持統天皇の意向を受けて作られた過去の歴史であると考えている。

44代までの天皇の名前は奈良時代に天武天皇の一族である淡海三船という人物がまとめて付けた。それまでは「大王」(おおきみ)などと呼ばれていたようだ。その中で「天」がつく「おくり名」を付けられたのは天智天皇と天武天皇のお二方だけである。天武天皇の妻の持統天皇の和風の「おくり名」はなんと「高天原廣野姫天皇」である。天皇の歴史の中でこの三人の天皇に「天」が集中しているのである。「高天原」「天照大神」など「天」がつく物語はこの三人の天皇の時代に創作されたか、あるいは都合よく編集したのではないかと思うようになった。

天武、持統天皇は天智天皇の子である弘文天皇を倒して新政権を作った(壬申の乱)。これはクーデターなので、新政権は何とか正当性を主張しなければならない。そこで考え出したのが天照大神の国譲りの話である。天照大神は大国主神の国を譲るように主張する。大国主神の義理の父はスサノオ神で天照大神の兄弟だ。もとは弟の国なので自分に返すことは当然だというのが天照大神の主張である。

天智天皇は持統天皇の父で、天武天皇は天智天皇の弟である。天智天皇の国を自分たちが受け継ぐことは、過去に天照大神がやったことと同じで正当性があるという主張がなされ、以降新政権の正統性が担保されたのである。
国譲りでの話では、天照大神の主張は理不尽のように私には見えた。しかしその理不尽を正当化するために巧妙に作られた物語が「国譲り」だったのだ。歴史上は天智天王と天武天皇は兄弟とされているが、これもクーデターをカモフラージュするために作られたものではないか。兄弟説はどうもあやしいと私は考えている。
さらにもっと露骨なのは、持統天皇が「孫」を後継者にしたことの正当性だ。
天武天皇には有能な子が6人いた。持統天皇の子もその一人で草壁皇子という。持統は息子を後継者にしたかったので有能な大津皇子などを亡き者にした。しかし草壁は体が弱く即位前に亡くなってしまった。当然ほかの皇子が即位するはずだったが、持統は自分が天皇になり、草壁の子すなわち孫が成長するまで待つ選択をした。この選択には正当性はないが、先例として天照大神は自分の後継者を地上に降ろすにあたって、息子ではなく天孫を降臨させた。持統はまさに孫を後継者にした。「なんで孫を?」とい疑問があったが、この話を比較すればなるほど納得ができる。
天武、持統のご夫婦天皇は古事記のなかに巧妙に先例を作り出し、自分たちの政権に正当性があるように見せたのである。

原文を読んでもいないのに、古事記に対していじわるな解釈をしてしまった。昔なら
「高天原に疑問をもつなど不敬である」
と言われたかもしれない。
私は、何事にも疑問をもち、新しい仮説を立てて楽しむという人生を送ってきた。もう残り少ない時間だが、もう少しそんな人生を楽しもうと思っている。
古事記をないがしろにしているわけではない。梅原版の「古事記」は私の一番の愛読書で、得るところは大変大きい。こんなにスケールの大きく、楽しむことができる神話を作ってくれた先人には大変感謝しているのである。
というようなことで「高天原」をさらに探すことはやめて先に進むことにした。次回は出雲にたどり着けるだろうか。とりあえず第2章終了です。

三輪の神紀行! はじまるよ!

2021年正月、三密を避けるため、初詣には行かなかった。その代わりに十数年前奈良の大神神社へ初詣に行ったことを思い返している。暮れの28日にお江戸日本橋を出発して東海道を走り1月1日に伊勢神宮に参り2日は伊勢本街道を走り1月3日に大神神社に詣でた。

これだけ大変な苦労しての初詣をしたのだから、きっと大きなご利益があるだろうと期待した。しかし痛めた脛の剥離骨折がわかり3ケ月ギプス生活になった。お参りにご利益を期待するのが間違だ。日本の神様はただそこに居られるだけでいい。何事もなく平穏であればそれだけでいい。ただ存在するだけでありがたいことなのだ。日本神話にも最初の神様は泡のように現れすぐに消えるだけの存在だったと書いてある。神様には過剰な期待はしない方がいい。

大神神社の大神は「おおみわ」と読む。神のおわすこの地域を「美和」とか「三輪」とよぶ。神社の背後にそびえる神奈備山は「三輪山」である。私の名前はここが故郷であると勝手に解釈し、年に何回かお参りするようにしてきた。三輪山の上には三輪の神様がおられるということで満足すればいいのに、屁理屈好きの私は
「あなたは誰ですか?どこからきたのですか?何をするために来たのですか?」
という問いを発したくなった。

最後の「何をするか?」という問いの答えは、前にも書いたように
「ただただ存在するだけでありがたい!」
という答えを得た。しかし他の二つについてはよくわからない。
大神神社の「御宴能」でみた能「三輪」の中に
「思えば伊勢と三輪の神、いったい分身のおんこと、いまさらなにを磐座や!」
というセリフがあった。
「ええーっ 伊勢の大神と三輪の大神は同じ神だったのだ」

あの年に走って伊勢と三輪にお参りしたのは偶然たまたまではなかった。私にとっては実に興味深いことで、この時以来畏れ多いことであるが神さまを訪ねて歩くことが私の生活の一部になった。
神さまの源流を求めて大和から丹波、因幡、出雲、日向、高千穂、新宮、熊野、再び大和、近江、伊勢、志摩へと旅をした。その旅の報告書を2016年に作った。

しかしどうにも合点がいかないことが多く、公表は控えていた。
昨年コロナ禍で旅もままならなくなって、再び読み返してみた。
疑問は数々残るし表現はつたないが、しかしどこかに残しておいた方がいいと思いFBに連載の形でアップすることにした。

題名は「三輪の、神紀行」あるいは「三輪の神、紀行」 どちらにでも読めるようにした。しばらく続けていくつもりです。おひまなおりに眺めてください。7日→6日→5日 と7回分 1月1日までさかのぼるようになっています。

 

■1-1 三輪山をしかも隠すか


近鉄の京都駅には「初詣は三輪さんへ」という大きな看板が立っていた。神仏習合の名残りで大神神社は三輪明神として長い間親しまれてきた。大神神社という名前が主になったのは明治以降のことである。大神神社のご神体は三輪山であり、麓の地域も三輪と呼ばれている。大神神社に参るためのJR線の駅も「三輪」となっている。

「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなむ 隠さぶべしや」
大和を去る万葉歌人の額田王が、振り返りながら雲に隠れた三輪山を懐かしむ歌である。

この歌碑が山の辺の道の途中に置かれている。ちょうど景行天皇陵の南側である。大昔大和盆地は大和川の氾濫のため中央部は低湿地になっており、交通路は三輪山山麓の高台をつなぐ山の辺の道が大道だった。大神神社も山の辺の道にあるが、10代崇神天皇陵、12代景行天皇陵もこの道に沿っている。景行天皇の息子はかのヤマトタケルである。タケルは日本各地で武功を上げるが父に疎んじられ、伊吹山のイノシシに負けて三重の地で亡くなる。そして故郷を懐かしんで歌を残した。
「大和はくにのまほろば たたなずく青垣  山籠れる大和し 美(うるわ)し」
大和の風景を愛した川端康成が揮毫の歌碑がやはり山の辺の道に残っている。

今も昔も大和は日本人のふるさとなのだ。私も勝手に大和を故郷としている。古代日本のふるさとである大和 その地域の象徴である三輪山。

この地で古き時代の人々は生活を営んできた。しかし生活が豊かになると争いが起き、外界からの侵略が行われたりする。時には疫病が蔓延することもあったろう。
古代においては争いを治め、疫病を退散させるのは神の声を聴くことができる巫女の仕事であった。天皇でさえ巫女の告げる神の声を聴かなければならなかった。
2013年から神々を意識して大和から西日本を回った。どの神社を訪ねても必ず背後に巫女の影があった。巫女こそが日本の歴史を動かしていたのだということに気が付いた。

■1-2 思えば伊勢と三輪の神


さっそく大神神社の話から始めよう。大神神社のご神体である三輪山には神さまがおられる。その神様について、世阿弥の作といわれる能『三輪』の中に興味深い話が残っている。私は古典芸能には疎いので、若いころから能や仕舞になじんでいる我が奥さんに『三輪』の要約を聞いた。

・・・・「山の辺の道」沿いで小さな庵をいとなむ玄賓僧都はじつは大変偉いお坊さんだったが、ある時から三輪山のふもとで隠遁生活を送っていた。しかし時々は訪ねてくる人もいた。ある時僧都の元に美しい女性が通ってくるようになった。彼女はさまざまな悩みを僧都に語るようになった。
ある日その女性は帰りがけに、僧都の衣を借りたいと言う。僧都は何か怪しく感じて女性の後をつける。女性は大神(みわ)神社の大杉の近くで「ふっ」と消えてしまう。今でもその大杉は境内にあり、しめ縄がかかっている。
翌日村人が、
「大神神社の杉の木に、僧都の衣が掛けられている」
と伝えてきた。さっそく駆けつけると、「ふっ」とその女性があらわれた。
彼女は僧都に自分の正体を語り、天の岩戸の神楽を舞う。
実はこの女性に姿を変えた三輪の神だった。神楽を舞い終えた彼女(?)は再び三輪山の磐座に姿を隠した。そしてこの「能」は
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事 いまさら何をいわくらや!」
の謡で終わる。
「伊勢に居られる神さまも私(三輪神)の分身だ! そんなこと今さら言わなくても誰でも知っている!」

日本神話のハイライトである、「天の岩戸隠れ」の話は実に面白い。しかしここではあらすじだけを述べておく。

・・・・・ある時、高天原では太陽神である天照大神が天岩戸に隠れてしまい、世の中は真っ暗闇になった。天のウズメは岩戸の前で妖艶な神楽を舞った。それを見て騒ぐ神々の声を不審に思った天照大神は岩戸をちょっとあけた。岩戸の前に控えていた強力のタジカラオ神がすかさず岩戸を引き剥がして放り投げた。岩戸が開いて天照大神の姿が現れると、世の中は再び明るくなった。・・・・

玄賓僧都を訪れた女装の神様は天の岩戸の神楽を舞ったのだから当然天のウズメと思ったが、大神神社の三輪流神道では、この女性は天照大神であるという。すなわち三輪山の神は日本の最高神である天照大神であるとされている。最高神が寺の坊さんのところに行って悩みを語りというのは、おかしな話だ。しかし神仏習合の時代には、仏さんのほうが神さまよりもちょっと偉いことになっていたから、こういう話もありえたのだろう。

大神神社のHPをみれば三輪山の頂上磐座には大物主神が祭られているという。私は三輪の神は大物主神と思っていた。しかし『三輪』のお能の中では、「伊勢と三輪の神は同じである」と言う。女装の三輪の神は実は伊勢の天照大神と言うのである。いったいどうなっているのか!

これはもっと詳しく調べねばならない。

■1-3 三輪山の地図、我が家の家宝!

上の地図は五百沢智也さんがわざわざ作って下さった手書きの2万5千分の一の地形図である。五百沢さんは国土地理院の地図の専門家、登山家でもあったが退職後は多くの著作を残された。
私が三輪山に何回も行っていると報告すると、
「腕が鈍らないように描いてみたよ!」
とこの地図を送って下さった。
よく見ると2万5千分の一の地形図をコピーではなく等高線も一本一本手書きである。こんな貴重なものは私が死蔵してはもったいない。ぜひ皆さんにも見てほしいと思ったことも、この紀行文をFBにアップした理由でもある。「お宝鑑定団」に出したら大変な値段がつくかもしれない。

三輪山は長い間禁足地で人が入ることはできなかったが、最近は狭井(さい)神社から時間を限って登ることができる。地図を見ると登山口の等高線は100m、頂上は480mを示している。高度差380mはかなりの登りである。神聖な登山道では飲食、酒やタバコ、写真も禁止である。途中に滝の修行場もある。一木一草、一岩にも神が宿っており、ちょっとした木々、岩々には注連縄(しめなわ)が張ってある。参拝者はそれをひとつずつ拝んでいく。

三輪の神は酒の神でもあるがもちろん山内では飲むことはできない。飲んでいいのは狭井神社で汲んだ「ご神水(こうずい)」だけである。私が登った時、後ろから追い越して行った白装束の女性は「はだし」だった。「冷たくないの?」声をかけたが返事をしてもらえなかった。山を下りた後に再会したら、
「神聖な山の中なので声を出してはいけないのです!」
と諭された。
物見遊山で登ってはいけないような荘厳な山だった。強い信仰心があれば、足の痛さなど気にならないのかもしれない。

 三輪山の神は酒の神でもあると聞いた。酒は古代には薬でもあった。大神神社から狭井神社に行く途中に「くすり道」があり、両側には薬品会社の灯篭が立ち並んでいる。全部確認したわけではないが日本の製薬会社はほとんどすべてが寄進しているのではないかと思えるくらいだ。
大神神社の境内には相当な数の酒樽も奉納してあった。町中の酒屋の前につるされている杉玉は、三輪の新酒ができたことを知らせる印なのだそうだ。酒、薬は古代では大変重要な産業、その神様はとても偉かったのだろう。

 

■1-4 三輪山の神々は国津神!


狭井神社で聞いてみると、三輪山の中には磐座がいくつかあり、そこに次のような神さまが祀られているということだった。
●辺津(へつ)磐座(標高100m)山の辺の道に沿った場所ある。祭神:少彦名(すくなひこな)神
●中津(なかつ)磐座(標高300m)には大国主神の別名である大己貴(おおなむち)神を祀られている。
●頂上の奥津(おきつ)磐座(標高467m)には大物主(おおものぬし)神が祀られている。
この三柱の神さまは出雲の地方で活躍した神様である。
少彦名(すくなひこな)神は一寸法師のモデル。海の彼方から小さな船でやってきた。なんでも知っている山田の案山子(知恵の神で久延毘古神社の祭神)に聞くと「少彦名神である」という。少彦名は出雲の国で大国主神と一緒に国を作りはじめた神だが、途中で「ふっ」といなくなり常世の国に行ってしまう。
少彦名の神がいなくなり大国主神が困っていると、
「私を大和の三輪山に祀れば、国造りを手伝う」
海のかなたから光り輝いて大物主神があらわれて、そう言った。
出雲の国を作るためになんで大和の三輪山に祭らなければいけないのか、かなり不思議なことだ。しかし神話の上では出雲と大和はつながっていたのだ。

日本書紀には三輪山神話が書かれている。
・・・・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)は大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。しかし其の神は昼は来ないで、夜にだけやって来る。倭迹迹日百襲姫命は、夫に、
「あなたは夜しか来ないので顔を見ることができない。たまにはゆっくりして美麗しき姿を見せてほしい」
「それはもっともだ。明日朝あなたの櫛笥(くしげ)に入っている。でも私の姿を見て驚くなよ」
倭迹迹日百襲姫命は心の内で密かに怪しんだが、朝になって櫛笥(くしげ)を開けたら、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。それに驚いて倭迹迹日百襲姫命叫んだ。

この姫様の名前はとても長い。大変申し訳ないが以降は「モモソ姫」と略させてもらう。モモソ姫は第7代孝霊天皇の娘で、巫女として過ごした女性である。巫女は独身でなければならないが、神様と結婚する場合は「神婚」であって一般の結婚とはちがうのである。
話はここで終わりではなくモモソ姫は三輪の神に恥をかかせたとしてホトをついて自ら死んでしまう。そのあと昼間は人々が、夜間には神々が働いて大きな墓を作ったということになっている。恥をかかせた巫女(モモソ姫)を追悼して箸墓を作ったというのは何にしても解せない。亡くなる前に何か重要な仕事をしたのだろうが、日本神話にはあまりよくわからないことがしばしば現れる。原著を読まないで、地元の看板や解説を読むだけで判断したからそんなことになるのだろう。
しかし巫女さんが何か重要な役割を持っていたことは感じられる。もうちょっと探ってみることにする。

■1-5 桧原神社の奥には天照大神がおられた

  狭井神社から山の辺の道を北へ上がっていくと玄賓僧都の玄賓庵があり、さらに少し歩くと桧原神社にでる。ここは大神神社の摂社であるが、立派な鳥居があるだけで拝殿も本殿もないすこぶるシンプルな神社である。最初に来た時にはどこに神社があるのか訝しく思った。鳥居前にある小さな社は神さまのお付きの巫女の社で、神様はこの鳥居の奥におられる。桧原神社には神官はいないので、以下は大神神社で聞いた桧原神社の神様の話である。

第10代崇神天皇は三輪山の麓、磯城瑞垣宮に都をおいた。その宮には天皇家の祖先である天照大神と国津神である大国主神を一緒に祭っていた。しばらくするとこの地に恐ろしい疫病が蔓延して国民の半数が亡くなるというパンデミックが起きた。偉い巫女に占ってもらうと、それは天津神と国津神を一緒に祀ったために起こったことであり、二つの神を分離するようにとのお告げがあった。祀りごとに対して天皇であっても逆らうことはできず、崇神天皇は大国主神を大和神社に、天照大神を桧原神社に移すことにした。すると恐ろしい疫病のパンデミックは収まった。

この話を読んで、玄賓庵に女装の神(天照大神)が訪ねてきたことが納得できた。
三輪山の正面の大神神社には大物主神が祭られているが、裏手にあたる桧原神社と大和神社には天照大神と大国主神がそれぞれに祭られているのだ。
桧原神社の本殿は大神神社と同じ神体山の三輪山である。崇神天皇は自分の宮から天照大神を退出させたが三輪の地から遠く離れた場所ではなく、シンボルである三輪山の裏側に移しただけだった。
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事 いまさら何をいわくらや!」
伊勢の神と三輪山の神が同じだというという謡曲を聞いて、かなり悩んだが、いま解決の手掛かりができた。
要は同じ時期に三輪山に天照大神(伊勢の神)と大物主神(三輪の神)が祀られていたのだ。

世阿弥の時代、すでに天照大神は三輪の地にはおられなかった。しかし世阿弥は伊勢におられる神様は三輪山の出身なんだよと言いきかせる「能」を作ったのだ。

 天照大神は、桧原神社の小さな社に祀られているトヨスキ入り姫に連れられてこの地に来たが、さらに丹後半島にまで足を延ばした。丹後一宮の籠神社には数年居られたという。その旅の後再び桧原神社に戻り、次の御杖代(先導役の巫女)である倭姫(やまとひめ)に連れられて旅をして伊勢の地に安住の地を作られたという。この話は古事記や日本書紀にはないがのちの世に作られた「倭姫世紀」という本につづられているという。天照大神が通った地域には神社が作られており、今は観光地として売り出そうとしている。伊勢本街道には「御杖村」があり、「つえみちゃん」というキャラクターが旅人を迎えている。

伊勢と三輪の神のことはなんとなくわかったが、なぜ天照大神は旅を繰り返し伊勢に行ったのか、なぜ出雲の神が大和にのこったのかという疑問は解消しない。これを解決するためには出雲、伊勢に行く必要がでてきた。

■1-6 御杖代に導かれた神さまの旅

  崇神天皇の宮殿から神様は別の場所に移って行かれるが、その時に御杖代として巫女が先導した。天照大神を桧原神社にお移しする大事業を成し遂げた巫女の業績をたたえて桧原神社の下に大きな墓が作られた。箸墓の話であるが、神話は何かごちゃごちゃしていて様々な話が混じっている。御杖代の巫女は大物主神の妻の巫女でパンデミックを治めた巫女、私の中ではどうもこれらの巫女は同じ人(神?)なのではないかと思っている。

川端康成の「大和は国のまほろば」の歌碑に立つと眼前にちょっとした森が見える。これが箸墓とよばれる前方後円の大古墳である。宮内庁は箸墓を「モモソ姫」の墓と認定し管理している。近くにある崇神天皇陵や景行天皇陵と比べてもそん色はないというよりも大きいくらいだ。なぜホトをついて亡くなった巫女の墓が天皇陵よりも大きいのか、かなり大きな謎である。しかし天照大神と大国主神を別々のところに移っていただき、疫病の蔓延を治めたという国家的大業績を成し遂げた巫女ならば納得がいく。

近年この墓がヒミコの墓ではないかとの資料が集まっている。地元ではすでにヒミコの里として売り出しにかかっている。なんとなんと、モモソ姫=ヒミコ であればヒミコは大物主神の奥さんでパンデミックを抑えた功労者となる。魏志倭人伝にはヒミコはヤマト国の女王としている。ヒミコが箸墓の主とすれば、その巨大さの理由は明確に説明できる。私はモモソ姫が実はヒミコと呼ばれる巫女だったという説を提出したい。

ところで、私はヒミコ、ヤマト国とカタカナで書いた。「卑弥呼」「邪馬台国」という文字がどうも私は気に入らないのだ。中国では海の向こうの「邪悪な国の卑しい女王」と貶めてこんな字を使ったのではないか。中国語に詳しい友人に聞いたら「音を表しただけで、そんな悪意はないんじゃない?」
という。
しかし日本の文献『日本書紀』には「卑弥呼」や「邪馬台国」という卑しい漢字は使われていないという。学者以外私たちは「魏志倭人伝」などに縛られることはないのではないか。私は「日巫女」としたいところだが、エビデンスはないのでとりあえずカタカナで書くことにしている。邪馬台国は「やまとこく」でいいのにわざわざ「やまたいこく」などと言わなくてもいい。このあたりで私はかなりの国粋主義者になっている。

神さまの名前がたくさん出てきた。これまでの話に出てきた神様を一覧表にしてみた。モモソ姫がかなり重要な位置を占めていることがなんとなくわかる。天皇については神武天皇と崇神天皇は同じ人物で、前半生を神武天皇、後半生を崇神天皇とし、第2代から第9代までは架空の天皇であるとする説に従っている。私は架空ではなく、この8代は別系統の天皇だと考えているのだが。

とりあえず三輪山の神様、巫女様をながめて、次回は出雲に向かうことにする。
第6章で再び三輪山が出てくるが、とりあえず第1章「三輪山は不思議な山」の項目は終了!

地学かわら版 復刻で

昔地学の教員をやっていたころ、その日の授業内容とは関係のないが、面白そうなトピックを集めて「地学かわら版」を発行していた。当時はガリ版で作ったものなので「わら半紙」に印刷したものしか残っていない。コロナで巣ごもりの中、机の整理をしていたら何枚か出てきた。それをワープロで打ちなおした。せっかくなのでここにアップしておく。皆さんに見ていただきたいということではなく、私の記憶の整理という意味だが、暇で困っていたらちょっと覗いてみてください。

1984年、戸山高校にいるときに作ったものだろうと思います。夏休みに北海道の函館から札幌まで走り、さらに稚内の近くの豊富町に行き、隣の幌延町の高レベル放射性廃棄物の埋め立て候補地をみてきました。当時はまだ風評被害という言葉は使われていなかったようですが、明らかな風評被害が出ていることを知りました。そんな意味で言えば、こんな文章でも残しておく意味はあるかなと思っています。

ほかにもまだありそうなので探して時々ここにアップしておこうと思います。ガリ版刷りなのでイラスト、写真などはありません。(恐竜の時にはガリペンで描いていたかもしれない)

地学かわら版 1984年8月ー1

夏休み報告 1
今年の夏は以上に暑かったですね。この暑さの中で、何をやっても能率が上がらないので(私の場合は涼しくても同じですが)これを理由にして涼しい北海道へ行くことにしました。貧しい生活なので東京青森は当然「青春18切符」を使いました。(注:1983年から8000円、1日1600円)

朝6時10分上野発の鈍行列車乗り継ぎでその日のうちに青森に行くことができます。あと10分早く着けば青函トンネルの海峡線で函館に行くことができるのに、ここがJRのせこいところです。仕方なく青函連絡船で函館に行きました。船の中では寝ることができるのでかえって安上がりかもしれません。4時間ほどで函館到着。道路標識に「札幌まで270㎞」とありました。
「おお!これなら3日間で走れる!」

5時15分、カメラ、電池、着替えなど重たいものは袋詰めにして友人宅に送り、短パン、ランニングシャツにディパックを背負って国道5号線を走り出しました。5分もしないうちに雨が降り出したが、どうせ汗でぬれるので雨の中20㎞を走った。8時30分大沼の近くでやっと晴れてきた。靴の中はぐちゃぐちゃで気持ち悪いが、目の前には駒ケ岳が若駒のように(我ながらダサい表現)そびえていました。

しばらく歩いているうちに衣服も乾いてきたので近くのセブンイレブンに入ってあったかコーヒーとあんまんを食べて元気を出し、森町を通過(10時16分)。目の前に噴火湾が見えてきた。このあたりで(11時7分)函館から40㎞。「今何時、そーねだいたいね!」などといながら快調に進むが、車が多くなって閉口する。
途中ブンブン族(ミツバチ族)のオートバイ連中とすれ違う。皆ピースサインをしていく。多少「バイクは楽でいいなあ!」と思うが、人をうらやむことはやめて、こっちの方が楽しいんだぞと無理やり自分に言い聞かせる。落部という集落で2時20分、60㎞、足が火照って熱を持ってきたので、湧き水に足を浸す。横を見たら近所の家のスイカとトマトが冷やしてある。汚い足と一緒にしてゴメン!

昔植村直己さんは北海道の宗谷岬から九州の佐多岬まで2800㎞の徒歩旅行をしたが、最初の日は張り切って74㎞を歩いたと言ってました。私は75㎞先にある八雲という町を目指していましたが、50㎞を超えたあたりから足は痛いし体はバテバテになり5分走っては15分歩きという状態で時速は6㎞に落ちてしまいました。それでもなんとか5時ごろ八雲駅に到着。駅前の「まるみ」という商人宿に泊まりました。1泊2食で4000円、まあ妥当な値段です。お風呂につかりながら
「あの偉大な植村直己に1㎞勝った」
という満足感に浸りました。

8月19日 缶コーヒー 100円 新聞90円 週刊朝日250円
     アイス 100円 連絡船1400円 夕食 550円
8月20日 朝食セブンイレブン 400円 パインジュース 100円 
     昼セブンイレブン 250円 宿賃 4000円

地学かわら版 その2

夏休み報告 2

植村さんは初日74㎞歩いたのがたたって翌日は、這って歩くような状態だったというが、私は親指の脇にマメができただけで快調そのもの。朝5時に「まるみ」を出発。しかし八雲から長万部までの30㎞の直線道路にはうんざり。並行する函館本線には北斗星やトワイライトエクスプレスなどJR自慢の豪華特急が、楽しそうな旅客の顔を乗せて追い越していく。その列車の姿が一直線の線路の先にいつまでたっても消えない。高石ともやさんの「長い道」が実感できる。単調な道だが時々大型トラックどうしが追い越しをするので、右側通行をしているのにすれすれのところを通過して恐怖を感じる。

10時20分に到着した長万部(おしゃまんべ)の町は寂しい感じだが、なんと「東京理科大学」があり、大勢の学生がいるという。基礎工学科の1年生はみなここで学ぶのだ。しかしなんで東京理科大学がここにあるのだろう。
国道5号線は長万部から内陸に入るが、私は札幌までの近道の230号線に入る。しかし洞爺まではトンネルだらけなので30㎞は列車に乗ることにした。トンネルは歩道があっても狭いし音もすごい。空気も悪いし、車にも迷惑になることは私も経験している。列車の中では「カニめし」(820円)を食べながらしばらく列車のゆれに身を任せた。

洞爺(11時)から洞爺湖までは昔の軌道跡を快適に上る。79年に大噴火をした有珠山がまだ異様な姿を見せていた。湖岸には快適なジョギングコースになっているが私の足は言うことを聞かない。てくてく歩いていると、サイクリングの連中が「お先に!」と言いながら追い越していく。「自転車は楽だなあ!」とうらやましく思う。でも「他人の庭はきれいに見える!」ということわざ通り、それぞれが勝手に羨ましがっているだけ。

洞爺湖岸を半分まわったところで昭和新山が見えてきた。この山は昭和19年、当時は麦畑であったが、その一部分が少しずつ隆起し、2年ほどで300mもの山になったのです。その様子を近くの郵便局長であった三松正夫さんが毎日記録したものは三松ダイヤグラムと呼ばれ、火山の成長を正確に記録した資料として世界で認められました。

三松さんの方法は自分の顎を固定台に乗せて目の前に数本の釣り用のテグスを張ってグラフ用紙のようにして成長の様子を記録していったのです。時期は昭和19年から20年、戦争のさなかで新聞もラジオもこれだけの大事件のことは報道しませんでした。戦後何年かたってやって昭和新山のこと、三松さんのことが世界に知られたのです。三松さんは昭和新山をわが子のように思い、その土地を買い取ってほかの人に荒らされないようにしたとのことです。したがって今もその地域に入ったり登ったりすることはできません。

湖畔道路を走り2時半、松浦武四郎展望台の上にあがる。大原小学校がある。教え子の田中雄次郎君が日本縦断徒歩旅行(注:1979年)の時に泊ったことがあると後で聞いた。
5時半、ルスツ高原のLilla Huset というペンションに泊まる(6000円)。ルスツはスキー場、童謡「赤い靴」の歌の発祥地!本日の走行距離は70㎞。 今日も植村直己に勝った!

地学かわら版 その3

夏休み報告 3

 ルスツ高原は何もないところだったが4、5年前に突然ディズニーランドみたいな遊園地とスキー場と巨大なホテルができ、地元だけでなく本州からも多くの人が来るようになったとのこと。もう8月も末でこの地では学校も始めっているので人影はまばらだった。スペースマウンテンに2人が乗って「キャー」と叫んでいるがなんとなく白々しい。遊園地ってのは混雑していないと寂しさが募るものです。
「おもしろて やがてさびしき 遊園地かな」字余り。

 またも夜半から雨、朝5時の出発予定はずるずる伸びて、出発は7時。今日は最大難所の中山峠越えがある。山はもっとひどい雨に違いない。そう思うと気分が滅入る。ルスツ高原から喜茂別に降りる。ここには昔国鉄の胆振戦が通っていた。線路は残っているが、何となく寂しい気分。

 喜茂別から登りにかかる。と言っても20㎞近く緩やかな登りなので走るのはそれほど苦ではない。それよりも雨と風を何とかしてほしい。北海道の夏だが寒くて仕方がない。途中の店に入ってあんパンを食べ温かい牛乳を飲んで朝食にする。
 3日目だが、難所があり気象も悪いので緊張感が増して疲れは感じない。中山峠は標高800m、喜茂別は200mだから600mを3時間かけて登るし、適度のカーブ、湧き水があるので気分は悪くない。

 途中で自転車ヤロウに抜かれるが、だいぶ疲れているようで「ガンバレヨー!」と言っても返事もなし。15㎞ほどは人家も何もない。休む口実もないので2㎞走っては3㎞の歩きを繰り返しているうちに突然中山峠に出た。最後の急坂で先ほどの自転車ヤロウを追い越した。急坂は走りの方が速い。峠にはドライブインがあり観光バスがあふれている。ベンチに座ってジュースを飲んでいると自転車ヤロウが上ってきたが、私を見るとプイと避けていった。ムリもない。機械力が人力に負けたのだから。

 私のほかに人力の旅行者がいた。彼は東京の学生で函館から歩き始め今日で5日目だという。私の2倍ぐらいの荷物を持っているので大変だったろう。つい「私は函館から3日目だ」というとさっきの自転車ヤロウ同様にいやな顔をする。2人を刺激してもいけないので、早々に札幌側に下り始めた。こちら側は緩やかな下りで、「下り坂サイコー!」と叫びながら行く。しかし途中に1.5㎞の長さの定山渓トンネルがあった。排気ガスがすごく、轟音が聞こえてくる。恐ろしい。

 中山峠から2時間ほどで定山渓温泉についた。500円で温泉につかる。急に体中から疲れが噴出した。この先のことを考えると気力体力とも失せた。恐ろしいトンネルはもう通りたくない。定山渓は札幌の奥座敷でバスが何本も通っていると思うと、ここで今回の走り旅は終了ということにした。ルスツから中山峠まで27㎞、峠から定山渓温泉まで20㎞、これだけ走れば十分。札幌まで25㎞を残してバスに乗った。

 市内だがかなりの山の中の盤渓に住む友人宅に泊めてもらった。この友人は高校生のころ超能力に目覚め、よくUFOに出会ったそうだ。今回通った八雲や喜茂別はその筋の人たちの聖地で、多くのUFO目撃がなされている。東京からUFO本場の北海道に移って10年。最近は安定した家庭を営んでおり、普通の生活者になったらUFOと出会わないようになったという。
 今回の走り旅は定山渓でほぼ210㎞走った。札幌に2日ほど泊って、ここから再び青春18切符で北海道の北端、稚内を目指すことにした。

待乳山にリフトがあった!

11月28日にぶらりバークラブの散策会を行う予定だったが、コロナの感染者、重症者が増えてきたので中止にした。しかし私は行く予定の牛島神社にある「狛丑」(これは私の造語)を来年丑年の年賀状に使う予定だったので、浅草駅から歩いて牛島神社に行ってきた。下の写真の橋は鉄道橋だと思っていたら、その脇に歩道がついていた。橋の上からうんこビルと浅草付近の景色はなかなかだ。

牛島神社の正面の鳥居はなかなかいいでしょ。三つ鳥居あるいは三輪鳥居といいます。奈良の大神(おおみわ)神社(三輪明神)にあるとりいなのでそう呼ばれています。ここには狛犬が4対と狛丑が一対、単独の牛が2頭います。皆さんがなでるので「撫で牛」は磨かれて光っています。                     狛丑の写真を撮ったあと三囲(みめぐり)神社に行く。先日檻の中に入っていたないっていた陶器製の狛犬の写真を撮ることができた。ちょうどNHKの「魂の焚火」という番組の収録準備で大勢のカメラが並んでおり、私も仲間のような顔をして中に入ることができた。それにしても一つの番組のためにあんなにたくさんのカメラが必要なのだ。NHKだからできることなのだろうな。いつ放送するのか聞くの忘れた。この狛犬隣の狛犬に近づこうとしている感じか愛らしい 境内にある「三角鳥居」本日は珍しい鳥居を二つ見た。その後桜餅を食べて桜橋を渡って待乳山聖天に行く。巾着と交差大根がシンボル。ちょっと驚いたが、高台にあるので登山用モノレールがあったので乗せてもらった。高低差5メートルほどかな?

COVID-19 感染者2000人越え

11月19日、東京都の感染者は500人を超えた。全国では2千人を超えている。政府はまだGoToトラベルキャンペーンを続けるつもりのようだ。下のグラフはアメリカの感染者数(上)と東京都の感染者数(下)だ。桁は各段に違うが、東京に先駆けること1か月前に感染の波のピークが来ているように見える。

私は11月28日㈯にぶらりバークラブ(狛犬楽会)の散歩で、来年の干支、狛牛見学をするつもりで準備してきた。すでに参加を表明してくれた方々もいるが、このグラフ感染拡大を見て、直ちに「中止」を決めてブログで告知した。何人か方々から「当然」という返信をいただいている。「もし決行しても行かないよ!」という人もいる。こんなにも明白な関連があるのに政府はGoToをやるかやらないかなどなにも決められない状況だ。政府と自治体長が責任を押し付けている間にどんどん感染が広がっていく。アホとしか言いようがない。

  12月になってもたぶん減少することはないだろうから、年内は狛犬楽会の探索会は再開しないことにしました。来年になれば少しは減るだろうと期待しているが、「それは神のみぞ知る」である。私がそういうのは良いが、政府がそんなこと言っちゃまずい。このグラフを見てもかなり信頼のおける予測はできているはずである。しかしそれを言ったら「オリンピック中止」など政府のダメージが大きくなるのでいまは黙っているのだろう。しかしそんなことで人々が危険にさらされるのは大変迷惑だ。来年の干支の狛牛がいるのでぜひみんなで行きたいのだが、残念なことだ。もし可能なら個人で三密を避けて行って欲しい場所です。以下が狛牛!

向島百花園

家からバスを乗り継いで向島の百花園にいく。帰りは三ノ輪橋から都電で西巣鴨まで。三田線で板橋区役所へもどる。私は王子で降りて石神井川を板橋経由で我が家まで。家に着いたのはほぼ同じ。いずれも本日交通費なしの散歩だった。 隅田川を渡って向島へ行くと空は晴れて秋の雲。暦の上ではもう冬だが温かい秋の空。菊の花展をやっていたが、その写真は最初の一枚だけ。

園内からは東京スカイツリーがまじかに見える。紅葉の下の池に写ったツリーを写真に撮りたかったが、なかなかうまくいかない。下の写真。わかるかな?
さらにいろいろな花! 上の写真:もやもやとしたのは「仙人草」の花!

上の写真は「十月さくら」先日の大山ケーブルカー乗り場にも咲いていました。さらに墨堤の桜餅やの前の小さな公園にも咲いていました。十月桜がこんなに目立つようになったのは最近のような気がしますが、どうなんだろう。昔は私が気がつかなかっただけなのだろうか。

本日は11月7日㈯、アメリカ大統領選挙は4日前に終わっているのに、まだ開票作業中だという。ほぼ決っているのだが、トランプ大統領が悪あがきしているので、決定はまだ先になりそうだ。世界のリーダーの国がこの体たらく。見習えないよな。写真はおまけ!