今回の散歩は相模の国、今の神奈川県あたり。国府は平塚から大磯に移ったことはわかっているがその位置はまだ特定できていない。我が理論は「国府と国分寺は一体」だが、ここではまったく崩れている。相模一宮「寒川神社」は前に海老名の国分寺から目久尻川に沿って走って行ったことがある。距離は約7キロだが水運があるので一宮と国分寺はかなり近い位置にあったことになる。
池袋の駅に着いたらちょうど相鉄線直通海老名行の電車が入ってきた。湘南ライナーで大磯の国府本郷から今日の散歩を始めるつもりだったが直ちに変更。初めての路線に乗ることにした。羽沢横浜国大駅が目玉らしいが地下鉄のようで面白くなかった。でも新しい路線に乗れたのでとりあえず満足。海老名駅は来るたびに変化している。大発展中の上海の街のよう。外観はすごいが中身が伴っていない街にはならないで欲しい。下の写真は現在の国分寺から眼下の街を見る。
海老名の国分寺・国分尼寺
国国分寺の前に温故館があり、国分寺の資料を展示している。明治初年、中山毎吉(つねきち)は小学校の先生をしながら国分寺の調査に奔走し、校長をしていた小学校敷地に資料館を建てた。それを引き継いだのが現在の温故館である。中山の功績なしには相模の国分寺が日の目を見ることはなかったろう。
国分尼寺は国分寺から500m北あるが逆川運河で国分寺と繋がっていた。しかし中山の提言がなかなか取り入れらず史跡の認定が遅れてしまい、元の寺域は民家に侵食されてしまった。
国府、総社 大住郡=平塚市四宮
国府は最初は大住郡(平塚市)にあったらしい。国分寺は国府エリアではなかった。ということを私はあまり信じられないのだが。平塚市の四宮という場所、国道29号線と交差する県道44号の新しい道路わきから国府の遺跡が発見された。大念寺脇の国衙の遺構はまだ未発見だが、この辺にあったことが分かっている。総社は前鳥(さきとり)神社だろうと言われている。前鳥神社に行ってみると、由緒書きには「国府はここから餘綾(ヨロギ)郡(大磯町)に移った」と書いてある。国府というのはけっこう時代によって動くことがあったらしい。それなら海老名にあったかもしれないと思うのだが、海老名にはその気配はないそうだ。
国府(国府本郷)総社 餘綾(ヨロギ)郡=大磯町
相模の国府は平塚の前鳥(さきとり)神社付近から大磯の国府本郷に移った。平塚には国府、国分などの地名はないが大磯には国府の地名がある。その地に神事が行われる場所がある。しかし国府の遺構などは出ていない。国府祭を行うのは神揃山(かみそろいやま)であるが、今の時期に行ってもその場所を探すのは難しい。神揃山の祭りを司っていたのは大磯の隣の二宮町の相模二宮、川匂(かわわ)神社であることがわかっている。国府と総社、一宮、二宮の関係はどうなっていたのか、ちょっと興味がわく。ちなみに神揃山と言っても馬場公園から10分ほどで登れる場所である。
国府小学校の少し海岸寄りに六所神社がある。これが相模国の総社だとされている。参道は東海道線分断されているが、立派な神社である。お隣の二宮の川匂神社との関係はどうなんだろう。