丹後国はもともと丹波国の一部だったが和銅6年(713年)に分国されて丹波後国になり、元の丹波国は丹波前国になった。しかし呼びにくいので丹後国、丹波国になったという。前後にならなかったのは丹波国がもともとの国だったことを主張したかったのかもしれない。
古くは日本海側の方が表玄関だったので丹後の国の方に多くの集落があった。さらに丹後には天橋立という観光地があり大勢の人がやってきた。
さらに伊勢の天照大神もこの地にしばらくおられた(?)という。
ここから伊勢にお移りになったのでこの地を「元伊勢」とも言う。天照大神が伊勢にお移りになった後500年後に豊受大神もここから伊勢外宮にお移りになった。と伊勢神宮にも書いてあった。
国府 総社
国府の位置についてはまったくわからない。籠(この)神社の付近に府中という地名が残っていることもあり、付近に府中の遺構があるかもしれないがしばしば大津波に襲われているので発掘は難しい。(津波に続く)
賀曽利さんから
この投稿を見て賀曽利さんから国府の写真をいただいた。飯役神社は国司が使った印=印鎰(いんやく)から出た名前らしい。私もこの前を通ったはずだが、写真も撮っていない。さすがトコトン探索の賀曽利さんだ!
(前からの続き)津波の記録は籠神社の奥にある眞名井神社の鳥居脇の「波堰地蔵」の碑で分かる。碑のある場所は海抜50m、ここまで津波が上ったのだ。
総社は国府の近くにあったはずなので、丹後一宮の籠神社であるとの説もある。ということで、丹後国の国府位置不明(上の賀曽利写真では飯役神社:上の地図では国分尼寺跡?の場所)、総社は一宮の籠神社と言うことにしておく。
丹後の国分寺 国分尼寺
天橋立の内海である阿蘇海(与謝の海)の湖岸に近い高台に現在の国分寺がある。その前面の草原に礎石が規則的に並んでいる場所が元国分寺の跡である。現国分寺の隣に資料館があるが、私が訪れた時は休館だった。ネットで検索すると、私が訪れた後にだいぶ整備がなされ案内板も整備されているようだ。国分尼寺(法花寺)の位置は近くの中野遺跡かと言われたが確証はないようだ。
雪舟の天橋立図(国宝)Wikipediaから 国分寺が描かれ五重塔が見える。創立時は七重の塔だったはずだ。