■1-2 思えば伊勢と三輪の神


さっそく大神神社の話から始めよう。大神神社のご神体である三輪山には神さまがおられる。その神様について、世阿弥の作といわれる能『三輪』の中に興味深い話が残っている。私は古典芸能には疎いので、若いころから能や仕舞になじんでいる我が奥さんに『三輪』の要約を聞いた。

・・・・「山の辺の道」沿いで小さな庵をいとなむ玄賓僧都はじつは大変偉いお坊さんだったが、ある時から三輪山のふもとで隠遁生活を送っていた。しかし時々は訪ねてくる人もいた。ある時僧都の元に美しい女性が通ってくるようになった。彼女はさまざまな悩みを僧都に語るようになった。
ある日その女性は帰りがけに、僧都の衣を借りたいと言う。僧都は何か怪しく感じて女性の後をつける。女性は大神(みわ)神社の大杉の近くで「ふっ」と消えてしまう。今でもその大杉は境内にあり、しめ縄がかかっている。
翌日村人が、
「大神神社の杉の木に、僧都の衣が掛けられている」
と伝えてきた。さっそく駆けつけると、「ふっ」とその女性があらわれた。
彼女は僧都に自分の正体を語り、天の岩戸の神楽を舞う。
実はこの女性に姿を変えた三輪の神だった。神楽を舞い終えた彼女(?)は再び三輪山の磐座に姿を隠した。そしてこの「能」は
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事 いまさら何をいわくらや!」
の謡で終わる。
「伊勢に居られる神さまも私(三輪神)の分身だ! そんなこと今さら言わなくても誰でも知っている!」

日本神話のハイライトである、「天の岩戸隠れ」の話は実に面白い。しかしここではあらすじだけを述べておく。

・・・・・ある時、高天原では太陽神である天照大神が天岩戸に隠れてしまい、世の中は真っ暗闇になった。天のウズメは岩戸の前で妖艶な神楽を舞った。それを見て騒ぐ神々の声を不審に思った天照大神は岩戸をちょっとあけた。岩戸の前に控えていた強力のタジカラオ神がすかさず岩戸を引き剥がして放り投げた。岩戸が開いて天照大神の姿が現れると、世の中は再び明るくなった。・・・・

玄賓僧都を訪れた女装の神様は天の岩戸の神楽を舞ったのだから当然天のウズメと思ったが、大神神社の三輪流神道では、この女性は天照大神であるという。すなわち三輪山の神は日本の最高神である天照大神であるとされている。最高神が寺の坊さんのところに行って悩みを語りというのは、おかしな話だ。しかし神仏習合の時代には、仏さんのほうが神さまよりもちょっと偉いことになっていたから、こういう話もありえたのだろう。

大神神社のHPをみれば三輪山の頂上磐座には大物主神が祭られているという。私は三輪の神は大物主神と思っていた。しかし『三輪』のお能の中では、「伊勢と三輪の神は同じである」と言う。女装の三輪の神は実は伊勢の天照大神と言うのである。いったいどうなっているのか!

これはもっと詳しく調べねばならない。

■1-3 三輪山の地図、我が家の家宝!

上の地図は五百沢智也さんがわざわざ作って下さった手書きの2万5千分の一の地形図である。五百沢さんは国土地理院の地図の専門家、登山家でもあったが退職後は多くの著作を残された。
私が三輪山に何回も行っていると報告すると、
「腕が鈍らないように描いてみたよ!」
とこの地図を送って下さった。
よく見ると2万5千分の一の地形図をコピーではなく等高線も一本一本手書きである。こんな貴重なものは私が死蔵してはもったいない。ぜひ皆さんにも見てほしいと思ったことも、この紀行文をFBにアップした理由でもある。「お宝鑑定団」に出したら大変な値段がつくかもしれない。

三輪山は長い間禁足地で人が入ることはできなかったが、最近は狭井(さい)神社から時間を限って登ることができる。地図を見ると登山口の等高線は100m、頂上は480mを示している。高度差380mはかなりの登りである。神聖な登山道では飲食、酒やタバコ、写真も禁止である。途中に滝の修行場もある。一木一草、一岩にも神が宿っており、ちょっとした木々、岩々には注連縄(しめなわ)が張ってある。参拝者はそれをひとつずつ拝んでいく。

三輪の神は酒の神でもあるがもちろん山内では飲むことはできない。飲んでいいのは狭井神社で汲んだ「ご神水(こうずい)」だけである。私が登った時、後ろから追い越して行った白装束の女性は「はだし」だった。「冷たくないの?」声をかけたが返事をしてもらえなかった。山を下りた後に再会したら、
「神聖な山の中なので声を出してはいけないのです!」
と諭された。
物見遊山で登ってはいけないような荘厳な山だった。強い信仰心があれば、足の痛さなど気にならないのかもしれない。

 三輪山の神は酒の神でもあると聞いた。酒は古代には薬でもあった。大神神社から狭井神社に行く途中に「くすり道」があり、両側には薬品会社の灯篭が立ち並んでいる。全部確認したわけではないが日本の製薬会社はほとんどすべてが寄進しているのではないかと思えるくらいだ。
大神神社の境内には相当な数の酒樽も奉納してあった。町中の酒屋の前につるされている杉玉は、三輪の新酒ができたことを知らせる印なのだそうだ。酒、薬は古代では大変重要な産業、その神様はとても偉かったのだろう。

 

■1-4 三輪山の神々は国津神!


狭井神社で聞いてみると、三輪山の中には磐座がいくつかあり、そこに次のような神さまが祀られているということだった。
●辺津(へつ)磐座(標高100m)山の辺の道に沿った場所ある。祭神:少彦名(すくなひこな)神
●中津(なかつ)磐座(標高300m)には大国主神の別名である大己貴(おおなむち)神を祀られている。
●頂上の奥津(おきつ)磐座(標高467m)には大物主(おおものぬし)神が祀られている。
この三柱の神さまは出雲の地方で活躍した神様である。
少彦名(すくなひこな)神は一寸法師のモデル。海の彼方から小さな船でやってきた。なんでも知っている山田の案山子(知恵の神で久延毘古神社の祭神)に聞くと「少彦名神である」という。少彦名は出雲の国で大国主神と一緒に国を作りはじめた神だが、途中で「ふっ」といなくなり常世の国に行ってしまう。
少彦名の神がいなくなり大国主神が困っていると、
「私を大和の三輪山に祀れば、国造りを手伝う」
海のかなたから光り輝いて大物主神があらわれて、そう言った。
出雲の国を作るためになんで大和の三輪山に祭らなければいけないのか、かなり不思議なことだ。しかし神話の上では出雲と大和はつながっていたのだ。

日本書紀には三輪山神話が書かれている。
・・・・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)は大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。しかし其の神は昼は来ないで、夜にだけやって来る。倭迹迹日百襲姫命は、夫に、
「あなたは夜しか来ないので顔を見ることができない。たまにはゆっくりして美麗しき姿を見せてほしい」
「それはもっともだ。明日朝あなたの櫛笥(くしげ)に入っている。でも私の姿を見て驚くなよ」
倭迹迹日百襲姫命は心の内で密かに怪しんだが、朝になって櫛笥(くしげ)を開けたら、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。それに驚いて倭迹迹日百襲姫命叫んだ。

この姫様の名前はとても長い。大変申し訳ないが以降は「モモソ姫」と略させてもらう。モモソ姫は第7代孝霊天皇の娘で、巫女として過ごした女性である。巫女は独身でなければならないが、神様と結婚する場合は「神婚」であって一般の結婚とはちがうのである。
話はここで終わりではなくモモソ姫は三輪の神に恥をかかせたとしてホトをついて自ら死んでしまう。そのあと昼間は人々が、夜間には神々が働いて大きな墓を作ったということになっている。恥をかかせた巫女(モモソ姫)を追悼して箸墓を作ったというのは何にしても解せない。亡くなる前に何か重要な仕事をしたのだろうが、日本神話にはあまりよくわからないことがしばしば現れる。原著を読まないで、地元の看板や解説を読むだけで判断したからそんなことになるのだろう。
しかし巫女さんが何か重要な役割を持っていたことは感じられる。もうちょっと探ってみることにする。

■1-5 桧原神社の奥には天照大神がおられた

  狭井神社から山の辺の道を北へ上がっていくと玄賓僧都の玄賓庵があり、さらに少し歩くと桧原神社にでる。ここは大神神社の摂社であるが、立派な鳥居があるだけで拝殿も本殿もないすこぶるシンプルな神社である。最初に来た時にはどこに神社があるのか訝しく思った。鳥居前にある小さな社は神さまのお付きの巫女の社で、神様はこの鳥居の奥におられる。桧原神社には神官はいないので、以下は大神神社で聞いた桧原神社の神様の話である。

第10代崇神天皇は三輪山の麓、磯城瑞垣宮に都をおいた。その宮には天皇家の祖先である天照大神と国津神である大国主神を一緒に祭っていた。しばらくするとこの地に恐ろしい疫病が蔓延して国民の半数が亡くなるというパンデミックが起きた。偉い巫女に占ってもらうと、それは天津神と国津神を一緒に祀ったために起こったことであり、二つの神を分離するようにとのお告げがあった。祀りごとに対して天皇であっても逆らうことはできず、崇神天皇は大国主神を大和神社に、天照大神を桧原神社に移すことにした。すると恐ろしい疫病のパンデミックは収まった。

この話を読んで、玄賓庵に女装の神(天照大神)が訪ねてきたことが納得できた。
三輪山の正面の大神神社には大物主神が祭られているが、裏手にあたる桧原神社と大和神社には天照大神と大国主神がそれぞれに祭られているのだ。
桧原神社の本殿は大神神社と同じ神体山の三輪山である。崇神天皇は自分の宮から天照大神を退出させたが三輪の地から遠く離れた場所ではなく、シンボルである三輪山の裏側に移しただけだった。
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事 いまさら何をいわくらや!」
伊勢の神と三輪山の神が同じだというという謡曲を聞いて、かなり悩んだが、いま解決の手掛かりができた。
要は同じ時期に三輪山に天照大神(伊勢の神)と大物主神(三輪の神)が祀られていたのだ。

世阿弥の時代、すでに天照大神は三輪の地にはおられなかった。しかし世阿弥は伊勢におられる神様は三輪山の出身なんだよと言いきかせる「能」を作ったのだ。

 天照大神は、桧原神社の小さな社に祀られているトヨスキ入り姫に連れられてこの地に来たが、さらに丹後半島にまで足を延ばした。丹後一宮の籠神社には数年居られたという。その旅の後再び桧原神社に戻り、次の御杖代(先導役の巫女)である倭姫(やまとひめ)に連れられて旅をして伊勢の地に安住の地を作られたという。この話は古事記や日本書紀にはないがのちの世に作られた「倭姫世紀」という本につづられているという。天照大神が通った地域には神社が作られており、今は観光地として売り出そうとしている。伊勢本街道には「御杖村」があり、「つえみちゃん」というキャラクターが旅人を迎えている。

伊勢と三輪の神のことはなんとなくわかったが、なぜ天照大神は旅を繰り返し伊勢に行ったのか、なぜ出雲の神が大和にのこったのかという疑問は解消しない。これを解決するためには出雲、伊勢に行く必要がでてきた。

■1-6 御杖代に導かれた神さまの旅

  崇神天皇の宮殿から神様は別の場所に移って行かれるが、その時に御杖代として巫女が先導した。天照大神を桧原神社にお移しする大事業を成し遂げた巫女の業績をたたえて桧原神社の下に大きな墓が作られた。箸墓の話であるが、神話は何かごちゃごちゃしていて様々な話が混じっている。御杖代の巫女は大物主神の妻の巫女でパンデミックを治めた巫女、私の中ではどうもこれらの巫女は同じ人(神?)なのではないかと思っている。

川端康成の「大和は国のまほろば」の歌碑に立つと眼前にちょっとした森が見える。これが箸墓とよばれる前方後円の大古墳である。宮内庁は箸墓を「モモソ姫」の墓と認定し管理している。近くにある崇神天皇陵や景行天皇陵と比べてもそん色はないというよりも大きいくらいだ。なぜホトをついて亡くなった巫女の墓が天皇陵よりも大きいのか、かなり大きな謎である。しかし天照大神と大国主神を別々のところに移っていただき、疫病の蔓延を治めたという国家的大業績を成し遂げた巫女ならば納得がいく。

近年この墓がヒミコの墓ではないかとの資料が集まっている。地元ではすでにヒミコの里として売り出しにかかっている。なんとなんと、モモソ姫=ヒミコ であればヒミコは大物主神の奥さんでパンデミックを抑えた功労者となる。魏志倭人伝にはヒミコはヤマト国の女王としている。ヒミコが箸墓の主とすれば、その巨大さの理由は明確に説明できる。私はモモソ姫が実はヒミコと呼ばれる巫女だったという説を提出したい。

ところで、私はヒミコ、ヤマト国とカタカナで書いた。「卑弥呼」「邪馬台国」という文字がどうも私は気に入らないのだ。中国では海の向こうの「邪悪な国の卑しい女王」と貶めてこんな字を使ったのではないか。中国語に詳しい友人に聞いたら「音を表しただけで、そんな悪意はないんじゃない?」
という。
しかし日本の文献『日本書紀』には「卑弥呼」や「邪馬台国」という卑しい漢字は使われていないという。学者以外私たちは「魏志倭人伝」などに縛られることはないのではないか。私は「日巫女」としたいところだが、エビデンスはないのでとりあえずカタカナで書くことにしている。邪馬台国は「やまとこく」でいいのにわざわざ「やまたいこく」などと言わなくてもいい。このあたりで私はかなりの国粋主義者になっている。

神さまの名前がたくさん出てきた。これまでの話に出てきた神様を一覧表にしてみた。モモソ姫がかなり重要な位置を占めていることがなんとなくわかる。天皇については神武天皇と崇神天皇は同じ人物で、前半生を神武天皇、後半生を崇神天皇とし、第2代から第9代までは架空の天皇であるとする説に従っている。私は架空ではなく、この8代は別系統の天皇だと考えているのだが。

とりあえず三輪山の神様、巫女様をながめて、次回は出雲に向かうことにする。
第6章で再び三輪山が出てくるが、とりあえず第1章「三輪山は不思議な山」の項目は終了!